風月の祝祭日 (ヴェルコノ)
たくさんの屋台が連なる通りは、どこを見ても猫、猫、猫で溢れていた。
祭りに浮かれた猫たちの歓声やあちこちで鳴らされる楽器の音色やらが渾然一体となって、藍閃の街並みは常にないほどの賑わいぶりだった。
おまけに祭り恒例の悪魔の仮装に身を包んだ猫が大勢練り歩いていて一種異様な雰囲気を醸している。そのいつもとは違う街の空気に猫たちはいよいよ興奮しているようだった。
―――どいつもこいつも浮かれやがって。うっとおしい。
通りに面した屋台と屋台の隙間に置かれた樽に座っているヴェルグは、頭の後ろで腕を組み壁に体を預けながらつまらなそうに鼻を鳴らした。
今は暗冬の祭りの真っ最中だ。
祇沙の祭りの中でも特に大きい冬の祭りはコノエが楽しみにしている行事だった。
コノエの頼みででもなければ猫臭い街になど出てこないところだ、とヴェルグは欠伸をしながら考えた。
針金のような黒い尾が退屈げにユラユラ揺れる。
「…遅ぇな、チビの野郎。まーたどこかで道に迷ってやがんのか」
低く唸ったヴェルグがコノエの気配を探ろうと意識を澄ませたその時に、折りよく聞きなれた足音が近づいてきた。
小型種独特のすんなりした姿が猫の波をかき分けてやってくる。
「ごめん、待たせた」
両手に抱えた包みを守ろうと四苦八苦しつつ、コノエはやっとのことでヴェルグの側に来ると、大きく息を吐いた。
悪魔は口をへの字に曲げて、まったくだ、と低く唸った。
「たっぷり待たされたっつーの。それにしても、なんだ、随分買い込んできたんだな」
「ああ。だってどれも美味そうだったから」
目をキラキラさせてコノエは腕に持った包みに目を落とした。
ヴェルグの隣の樽に腰を下ろすと早速、包みをいくつか悪魔へ手渡す。
胡乱な目でヴェルグは手渡された包みを見た。
「なんだよ、これ」
「ケバブっていうんだって。屋台で売ってた。獣肉を焼いたやつ。―――アンタ、肉、好きだろ」
「ふーん」
意外なことにそれ以上は文句をつけることなく、ヴェルグは包みの中をのぞきこんだ。
香ばしい肉の匂いと香辛料のツンとした匂いが混じって、ひどく食欲をそそられる。
「猫の作ったモンにしちゃ美味そうだな」
「だろ?」
「おう」
大きく口を開けて肉にかぶりつく悪魔を見てコノエはホッとしたように笑った。自分も包みの中から肉を出すと食べ始める。
口の中に広がる肉汁と香辛料の入り交じったほどよい塩辛さ。骨から肉を削ぎとりつつ、時折指についた脂を舐めとり、コノエは黙々と咀嚼する。
普段、森の中で暮らすコノエにとって、こんな風にちゃんと料理された肉を食べるのは久しぶりのことだ。
なるべくガツガツ食べないように気をつけながら、それでも一心に食べていたら、ふいにヴェルグの腕が伸びてきた。
そのまま節だった指先がコノエの頬をなぞる。
ちょっとビックリしてコノエが思わず耳の先を尖らせると、ヴェルグはフンと鼻を鳴らした。
「―――ついてるぞ」
ヴェルグの指の先に肉の破片が乗っている。夢中で食べていたせいか頬にくっついてしまったらしい。
どう反応するべきか困ったコノエの目の前でヴェルグはこともなげに指先の肉を口に入れてしまった。
コノエの尻尾が硬直する。しかしすぐに鉤の尾が落ち着きなく樽の腹を打ち始めた。
この悪魔はいきなり何をするのか。
「ア、アンタ、なにして…!」
「ああ?なに赤くなってんだ、チビすけ」
眉を上げた悪魔はコノエの様子を意に介した風もなく、再び自分の肉にかじりついている。
「―――」
こういうことって普通なのかな、と少しばかり釈然としないコノエも仕方なく食事を再開した。
それでもどうも落ち着かず、耳の先は頻繁に震えるし尻尾だって不規則に揺れてしまう。
いやいや、落ち着け。とコノエは念じた。
そうだ。前はトキノとこういうことをやっていた。
頬を舐めたり舐められたりするのはリビカ同士が親愛の情を表す手段としては普通のことだ。
そうだ。だからヴェルグも俺に親愛を示してくれたに違いない。
うん。なにも問題ない。
そう結論づけるとコノエはうんうんと頷き、ようやく食事に集中することができた。
「―――」
百面相をしているコノエを胡乱な目で眺めていたヴェルグは、食べ終えた骨を指先で振り回すと、おい、と子猫に声をかけた。
「あっちのほうが騒がしいな。なにかあんのか」
「ん? ええと、広場のほうか。あそこは祭り恒例の対戦試合があるって言ってた」
「試合?」
悪魔の片眉が上がる。興味を惹かれたのか口の端が不穏な笑みを刻んだ。
相変わらず武闘派だな、とコノエが息を吐いたのに気がつかないヴェルグはさっさと立ち上がって歩きだした。
「行ってみようぜ。猫の試合なんざ見る価値もねーだろうが、暇つぶしにはなるかもしれねぇからな」
「あ!おい、待てって!」
コノエは慌てて包みを片づけると悪魔の後を追った。
「自分勝手なヤツだよな、くそ」
ブツブツ言いながらも少し先で猫波の隙間からのぞく針金のような黒い尾がコノエを促している。
―――コノエは眉を寄せると、ちぇ、と小さく口を尖らせた。微かに頬が緩んでしまうのが悔しくて外套のフードを被って表情を隠す。
変な悪魔だ。ばかだし。口は悪いし。
いつもいつも自分勝手でわがままで色々と最低なヤツだけど、―――でも、随分と変な気遣いをするようになった。
それはきっと、「優しい」と言っていいぐらいの気遣いだった。
☆☆
しばらくの後、通りの屋台を冷やかしながらヴェルグとコノエはブラブラと散歩していた。
のんびり歩くコノエとは反対に、ヴェルグは仏頂面でなにやら毒づいている。
「クソッ、試合だっていうから、血で血を洗う殺し合いかと思ったら、木の実のパズルかよ。…ッチッ、やっぱ猫なんぞの祭りに期待したのが間違いだったぜ」
「さっきからうるさいんだよ、アンタ。クィムスは由緒正しい祭りの試合なんだぞ。結構難しいし、暗冬の催しの中では一番人気だし」
トキノの受け売りをそのまま言うと、コノエはヴェルグの気を惹くようなものを目で探した。
いつまでも機嫌の悪いまま放っておくと、さっさと姿をくらましかねないのだ、この悪魔は。それはなんだかつまらない。
「なあ、ヴェルグ。あの店見ていいか?」
腕を引かれたヴェルグが振り返り、お、と目を瞠った。小さな弓矢で景品を打ち落とす的当ての屋台だ。
「なんだありゃ、―――射的みてーなもんか。いいぜ、やってみるか」
乗り気な悪魔にコノエは頷くと猫たちに揉まれながら目的の屋台へと向かった。
ぶつかってくる猫を難なく押しのけてゆく悪魔の横顔をチラリと見上げて、コノエは小さく笑うと鉤の尾の先を揺らした。
こんな時でもなければ悪魔と街なかを歩くなんてできない。
コノエだって猫がたくさんいるような場所は苦手だが、それでも年に一度くらいは賑やかな場所を見てみたいと思う。
―――そして、そんな場所を歩くなら一匹よりは二匹のほうが楽しいだろう。
その相手を選ぶなら、コノエはやはりこの悪魔を選んでしまう。当の悪魔に言えば小馬鹿にされてしまうかもしれないけれど。
まだまだ祭りは続く。三日三晩、この時ばかりは不夜の街となる藍閃では、昼間のこの時間であっても猫が数えきれないほど練り歩いている。
色とりどりの垂れ幕や花で飾られたカーニバルの賑やかさは、コノエにとっては未だに目新しい。
初めて藍閃の祭りを見てから2度目の冬を迎える。コノエは火楼から出てきては毎冬この祭りを見物していた。
バルドやアサト、そしてライと顔を合わせる機会もこんな時でなければ時間が作れないのが理由だった。
そしてもうひとつの理由。それは祇沙では異端である悪魔と堂々と猫まえに出られるのもこの祭りだけだからだった。
わあ、と一際大きな歓声が祭りの山車の進みに合わせて沸き上がる。
コノエも目を見張って華やかな山車を見上げた。
「すごいな、あれ」
「ああ。随分と張り込んでるみてーだな」
「きれいだ」
まるで夢の世界のような美しさだ。
嬉しいし、楽しい。なぜか、だんだんフワフワした気分になってきた。
雰囲気に酔ったのかもしれない。
浮かれて歩くコノエが、射的で得た小さな置き物を弄びながら屋台を冷やかしていた時に、ふと脇から出てきたどこかの雄猫がコノエの背にぶつかっていった。
足を取られてよろめいたコノエの腕をヴェルグが掴み、呆れたように片眉をあげた。
「―――オイ、よそ見して歩くんじゃねぇよ、チビ」
「悪い。気がつかなかった」
「猫だろお前。猫ってのはもうちょっと周りの気配に敏感じゃねぇのか」
「仕方ないだろ。こんなに騒がしくちゃ分からないことだつてある」
口を尖らせたコノエは、ヴェルグがじっと自分を見ていることに気がついて首を傾げた。
色違いの目が何かを探るように子猫を見つめる。
フード越しに顔をのぞき込まれて子猫の尻尾が落ち着かさそうにユラリと振られた。
目をそらしたと同時に悪魔は顔をしかめた。
「―――チッ、さっさと言えよ、チビ子」
「え?…ヴェルグ?!」
たじろいだコノエの腕を掴みなおすとヴェルグは子猫を引きずるように歩きだした。
祭りの喧噪から逃れるように大通りを抜け、路地をいくつか曲がる。
「お、おい、どこ行くんだよ!放せってば」
「うるせぇ、黙ってろ」
低く恫喝されてコノエの負けん気に火がついた。
わけもわからずいいように引きずられる謂われはない。
「放せよ!ヴェルグ!」
真朱色の目を怒りに光らせてコノエは喉を唸らせた。
腕を振り払うと案外簡単に悪魔は腕を放してくれた。
そのかわり、振り向いてコノエを見たヴェルグの顔は呆れたような不機嫌そうな、何とも言いがたい難しいそれで、ただでさえいかつい顔が更に強面になり、コノエは内心で少しだけひるんでしまった。
悪魔は頓着せずため息混じりに腕を組んでいる。
「テメー、いつから我慢してた」
「は?我慢って―――」
「のぼせてんだろ、猫の感情の渦に」
言われてコノエは言葉を詰まらせた。
確かに。暗冬の祭りに浮かれた猫たちの発する感情に共感しかけている。けれど、引きずられないようにする術をコノエは心得ている。
それでも、あまりにも多くの猫がひとつ街に集まっているせいで少し消耗してしまっているのは分かっていた。
気分が悪いというほどではないのだが、目ざとい悪魔にはわずかな変化もわかってしまったようだった。
「平気だ。―――引きずられてない」
「ばーか、ンな顔色してよく言うぜ」
心底小馬鹿にした顔でヴェルグは子猫の髪をガシガシとかき混ぜると、おもむろにコノエの体を横抱きにした。
慌てるコノエをひと睨みで黙らせると、炎を呼び出す。
子猫が慌てる間もなく目の前を黄金色の陽炎が取り囲み――― 一瞬の間に視界が反転した。
「わ!」
ぶれた視界を取り戻す間もなく乱暴に放られて、コノエはたたらを踏んだ。
なんとか安定を取り戻した時、背後から吹いてくる風に背を押される。
ごうごうと耳に響く風の音に混じって祭りの喧噪も聞こえてきた。
「ここならちっとは風通しがいいだろ」
振り向けば悪魔が腕を組んで遠くに視線を投げていた。
「ここ、どこだよ。跳んだんだろ」
「そんなに街から離れちゃいねぇよ」
悪魔は笑って、ほらよと顎で示した。
なめらかな石造りの足場と、その下に広がる街並みに目を向ける。どうも藍閃の街にある二つ杖の遺跡の頂上のようだった。
高い場所独特の風のうねりに耳を縮ませてコノエもそぅっと下を覗いた。眼下に見える藍閃の街並みは異様なほどに鮮やかに彩られている。
「…やっぱり高いな。祭りの行列が何か別の生き物みたいに見える」
「言われてみりゃそうだな。―――しっかし、どこからあんなに猫が出てくるんだか知らねぇが、街中猫臭くってかなわねぇ」
「リビカの街なんだから当たり前だろ」
真顔で答えるとヴェルグはつまらなそうに尻尾を揺らすと、ふん、と鼻を鳴らした。
悪魔の横顔が拗ねた子猫のように見えてコノエは声を上げて笑ってしまった。
猫臭いと文句を言う割に、いざ来てみればそれなりに楽しんでいるだろ、とは言わないでおく。
そんなことを言えば、文句が倍になって返ってくること間違いなしだ。
コノエは遺跡をぐるりと見回した。
相変わらず奇妙な造形だ。
いまはだいぶ傷んでしまっているが、元は計ったみたいにまっすぐな建造物だったに違いない。
下から吹き込んでくる風を全身で受けながらコノエは遺跡の端をゆっくりと歩いた。
一歩踏み外せば宙に放られる危うい位置だが、その分眺めが良い。
風に乗って祭りの音楽や歓声が切れ切れに聞こえてきた。
―――待ちに待っていた祭りなのだ、としみじみ感じてコノエは尻尾を機嫌良く揺らした。
「今夜にはアサトが宿に着くだろうって、バルドが言ってた」
コノエは宿屋の主に今朝教えられたことを嬉しそうに悪魔に告げた。
「ライも。そろそろ依頼を終えて戻ってくるって。それに今は、藍閃に来るとバルドの宿にもちゃんと顔を出すようになったんだって。―――バルドのやつ嬉しそうだった」
悪魔からの返事はなかったがコノエは構わず続ける。
「そういえば、今夜は暗冬のご馳走だからあんまり屋台の買い食いはするなって言われてたんだった」
先ほど食べた屋台料理を思い出してコノエは、うーん、と首を傾げた。
リビカは一度食事をすれば数日は保つ。だから今夜の食事も本当ならば食べなくてもいいのだが、せっかくのご馳走を食べないなんてもったいない。
どれぐらい食べられるか真剣に考え込んだコノエに、ヴェルグが呆れた顔で大げさにため息をついた。
「ガキか。テメーは」
「う、うるさい!バルドの料理を食べるのは久しぶりだから楽しみにしてたんだよ」
自覚はあるのか顔を赤らめたコノエが喉を唸らせて振り向いた時に、突風が下から巻き起こった。
あっと言う間もなく風に巻かれたコノエが足を踏み外す。
視界がグルリと回転して、慌てて伸ばした腕は空しく宙をかいた。
体勢を崩したままコノエは真っ逆さまに墜落した。
「っ」
何とか体勢を戻して遺跡に生えている木の枝を足がかりにしようとしたが、場所が遠くてそれもできない。
なめらかな遺跡の壁は足場にできるような突起も少なかった。
このままでは地面の叩きつけられる。
胃の腑に冷たいものがこみ上げた時に、体が柔らかな衝撃に包まれたて落下が止まった。
コノエの体を支えてくれた存在のため息が頭上で聞こえる。
「―――」
恐る恐る顔を上げると、やはりそこには仏頂面をしたヴェルグの姿があった。
「悪い。助かった」
そっと礼を言うと、ヴェルグは機嫌悪そうに目を眇めた。
そのまま体が上昇する感覚に、コノエは慌てて悪魔の腕につかまって改めて周囲を見回した。
地面まではまだ距離がある位置だった。祭りの屋台の賑やかなのぼりもまだ遠い。
宙で受け止められたらしいと知れて、コノエはしょんぼりと尻尾を垂らした。
また助けられてしまった。
危険が及ぶと助けてくれるとアテにしているわけではないが、結果的にそうなってしまっているのが雄のくせにと情けなくなってしまう。
「……」
眉を下げて口を引き結んだコノエにチラと視線を向けたヴェルグは、遺跡の頂上に戻ると面倒くさそうに子猫を地におろした。
「―――」
片眉を器用に持ち上げた悪魔は軽く息をついて短く刈った髪をガシガシとかいた。
苛立ちとも呆れともつかぬ表情をしたヴェルグの様子に、コノエは気まずそうに耳の先を萎れさせた。
パタパタ揺れていた鉤の尾も、外套の中にしまわれたかと思ったら足に絡みついてしまう。
「お前さあ……、」
ため息まじりの悪魔の声は心底呆れたような響きをもってコノエの耳に届く。
いたたまれなさがこみ上げてきて、子猫はしょんぼりと足元に視線を落とした。
こんなふうに呆れられてしまうよりも、いつもみたいに怒られるほうがまだマシだった。
顔を伏せていてもヴェルグの視線が感じられて、コノエの耳がいよいよ伏せられる。
所在なさげに尻尾の先が小さく揺れる。森から吹く風が、悪魔と子猫の間を隔てようとでもいうような強さで吹きぬけた。
風音にまぎれるほどの低さで唸ったヴェルグは大股に近づくと、ヒョイとコノエの首根っこを掴むとそのまま引きずって歩きだした。
急に引っぱられたコノエが蛙の潰れたような声をあげてもおかまいなしに、ヴェルグは遺跡の頂上に生えている灌木の茂みの奥に進んでいく。
陽射しと、風避け代わりになる程度に繁茂した小さな木陰にコノエを放り込むと、ヴェルグは色違いの目を細めてコノエの名を呼んだ。
「まったく。テメーは俺の心が広いことをもっと感謝するべきじゃねーのか」
ヴェルグがため息をつく。その声にはわずかばかりの自嘲が籠もっていたが今のコノエには気づく余裕などなかった。
―――何となしに嫌な予感を感じて思わず一歩後じさると、ヴェルグも一歩進んで空いた距離を詰めた。
子猫の喉から低く警戒の唸り声があがると、ヴェルグは鼻を鳴らして笑った。
「お前がフラフラほっつき歩くたびに、何度うっかりで怪我したか覚えてるか、チビ子」
う、とコノエは言葉に詰まった。
悪魔が言うほど頻繁ではないけれど、どうもコノエはリビカにしては注意力散漫なようで、今日のようなことがたまに起こる。
たいがいはちょっとした怪我で済んでいるけれど、怪我では済まないような時はどこからかやってきたヴェルグに助けられてしまうのだ。
「―――わ、悪いと、思ってる」
ボソボソとコノエが言うとヴェルグは軽く首を傾けて腕組みをし、軽く首を傾げた。
「ったくよー。テメーのことを縛りあげて閉じ込めないでやってるのは、俺様の広い心のおかげだってことをわかってんのか、チビ子」
珍しく子猫に言い含めるような口調で諭されて、コノエは自分が聞き分けのない子猫にでも戻ったような気がした。非常に情けない。
しかも言われている内容は結構危険なことの気がする。
このまま話が進んだら、この悪魔のことだ。今すぐ藍閃を出て森の家に閉じ込めるくらいことをやりかねない。
なんとか逃げられないかと視線を泳がせる。つられて尻尾が大きく揺れたら、何かを察したのかヴェルグの手で外套の首の辺りを吊り上げられた。
「ごまかすんじゃねーっつの、クソガキ」
「っ痛い!ばか悪魔!放せよっ」
「暴れんな。痛い思いなんざしたくねぇだろ、わかってるよな、チビすけ」
じたばた暴れたらヴェルグがニヤリと笑った。どこか獰猛な色を浮かべたその笑い方にコノエは覚えがあった。ありすぎるくらいだ。
しまった、と思ってももう遅い。
悪魔の手がすっかりとコノエの首筋を捕らえている。辺りには猫影ひとつ見当たらない遺跡の天辺のその木陰だ。
逃げ場がなくなったことを悟ってコノエは青ざめた。
「ヴェ、ヴェルグ―――?」
「なんだ?チビ子。さっきの威勢はどこに行ったよ」
悪魔の手のひらがゆっくりとコノエの頬をなぞり、首筋へ移動すると緩い力で子猫を引き寄せた。
それほど力が込められているわけでもないのに抗いがたい。引かれるままにヴェルグの腕の中に捕らわれて思わず悪魔の硬い胸板に手をあてた。
―――熱が―――、触れた場所から伝わる熱が手のひらを通して浸食してくる。それは確かに甘さを滲ませた温もりだった。
まさかこんな所で、と狼狽えたコノエが離れようともがいた。
「おい…?ヴェル、」
「うるせーな、黙ってろ」
錆びた声で囁かれる。抵抗するより先に寄せられた口唇に己のそれを塞がれて、コノエは思わず目をつむってしまった。
悪魔がのどの奥で笑った気配を感じたが、口内に忍び込んできた肉厚の舌に絡めとられると抗議の声も消えてしまう。
口中をくまなく探られ舌先が痺れるほどにこねあげられると頭の芯がグラグラと揺れた。
「…ふ、っ、んん…っ」
舌に軽く牙が立てられた瞬間、背筋に甘い痺れが走り抜けた。
堪えきれず漏れた声に気を良くした悪魔が、わずかに離れた口唇の合間で吐息で笑う。
「―――たったこれだけで、んなツラになるくらい気持ちいいのか?」
「…う、るさ…」
「相変わらず口の減らねーガキだな、」
余裕の表情で子猫の腰を引き寄せた悪魔は、そのままゆるゆると口唇を塞がれた。
舌を絡められ吸い上げられてコノエの目の内が白く点滅する。萎えそうな足を踏ん張らせようとしたが無駄な抵抗だった。
悪魔のたくましい腕が軽々と子猫の身体を抱え上げて灌木の奥のが瓦礫の壁にコノエの背を押し付けると、子猫の体を服の上からなぞりあげた。
じれったい刺激にコノエは息を詰めた。尻尾の先まで緊張して固まってしまった子猫の様子のヴェルグは喉を鳴らしてわらった。
「テメーが大人しく俺の言うことを聞くのは、こういう時ばっかりだからな」
子猫の首筋に吸いつくようにくちづけると、囁きよりもまだ小さな声でヴェルグは言った。
「―――このまま連れ帰っちまってもいいんだぜ?あの虎猫どもと会いたいってんなら、俺様の機嫌を取っておいたほうがいいんじゃねぇのか」
「…最悪だ、お前」
「一発で許してやるって言ってんだからよ。寛大なご主人さまに感謝しろよな、チビすけ」
「ばばばばばか悪魔!そういうこと言うな!あと誰がご主人さまだ!」
あけすけな悪魔の言葉に狼狽したコノエが逃れようともがくと、ヴェルグが顔をしかめて悪態をついた。
「痛ッ、このクソガキ、爪立てるんじゃねーよ!」
威嚇の唸りをあげてヴェルグの拘束から逃げようとしても、いかんせん体格差がありすぎて隙をつくことすらままならない。
反対に暴れる子猫を抱え上げて足元の草地に押し倒すと、ヴェルグは獲物を捕らえた肉食獣のような笑みを浮かべてチラリと口唇を舐めた。
「いいかげん、おとなしくしろっての」
「お前こそ、この手を放せよ」
怖じ気ることなく子猫の真朱色の目が真っ直ぐにヴェルグを見上げた。
―――いい目だ、とヴェルグは笑った。
その笑みを見たコノエの顔に動揺が走る。微かに震えた子猫の様子に気が付いたヴェルグはフンと鼻を鳴らした。
「なんだよ、怖いのか、チビ」
真上からコノエを見下ろす。真朱色の目から視線を逸らさずにゆっくりと子猫の首筋から胸元へ手を這わせる。
手のひらの下で鼓動が早くなってゆき―――熱がこもってゆくのを感じて悪魔は愉悦を湛えた目を細めた。
猫が外を出歩くたびに、どこで怪我をして死んでしまうかとヒヤヒヤする。
今は幾分自由にさせてはいるが、それでも目を放すたびに、この子猫は何だかんだと騒ぎを起こしてくれた。それなのにこの猫は自覚もしていないのだ。
おまけに、年に数度の虎猫たちとの再会のたびに連中から「森から出ろ。悪魔と離れろ」と粉をかけられてくる始末だ。
放し飼いにしてはいても、所有権まで手放すつもりはない。
それでもコノエが祭りを見たいと言い張り、絶対に気を抜かないと約束すると言うので、仕方なしにやってきたのだ。
―――だというのに、この子猫は勝手に目の前で死にかけてくれる。
いいかげん鬱憤がたまっている。
少しくらいは子猫に譲歩させてもいいはずだ、と悪魔は胸に呟くと尚も嫌がるコノエの上にゆったりとのしかかっていった。
「お前は少しくらい腰が抜けてたほうがフラフラしねーからいいだろ。それに、運動すりゃあ腹も減る。虎猫のメシもたらふく食えるってもんだろうが」
ニヤリと笑った悪魔の腕の中、もはや憎まれ口をきく余裕もないコノエが声を噛み殺していた。
―――いつもこうだと手間がかからねーのにな。
そう思うのと同時に、目が放せないからこそ、この猫が己にとっての唯一でありえるのだということもわかっていた。
―――まったく、しょうがねぇなぁ。
まだ当分、この子猫に振り回される自分を苦笑と共に悪魔は受け入れた。
<Fin>
<2011.6.10>
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