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白い花

Dummy

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影を慕いて【真百合】

真島ルート。

百合子家出中の真島のギギギ状態の日々。

姫様を見つけるまでの一ヶ月間、どれだけ胃を痛くして悩みまくったんだろうとか考えたら滾る(*´∇`*)



影を慕いて (百合子家出中)

 

 

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに 私をさらって行ってはくれぬか     
                                   河野裕子

 


☆☆

 

 


「…真島。私にだって意地があるのよ」


涙に濡れる目をキッとつりあげて姫様は俺を睨むと歩み去っていった。


淑女らしからぬ勢いのよい歩き方。そんなに大股で歩くと着物の裾がめくれてしまいますよ。相変わらずお転婆だなあ、姫様は。


はは、と乾いた笑いは、だけどすぐに萎れた花弁のように地に落ちて消えてしまう。


「…姫様」


口の中に苦さを噛みしめて、俺は昨夜から抱えている後悔を持て余していた。
どうしてあの時、三郎を止めてしまったのだろう。
あのまま、あの男を殺してしまっていれば、今頃はこんな惑いなど消え去っていただろうに。


『お前のことが好きなの』

『……だから、男性として、好きって意味よ』



夜会の夜。夢のように美しく着飾った姫様から告げられた、訥々とした告白を、何度も何度も胸の中で繰り返す。


恥じらうように伏せられた睫。細く震える声。目の前に無防備に放られている白い脚。


このまま欲望のままに振る舞ってしまえと唆すもう一人の自分を止めるだけで精一杯だった。


姫様が俺のことを好いていてくれた。男として求めていてくれた。
頭の芯がぶれるような歓喜と、背筋を冷たくする恐怖が交互に俺を襲う。


なんてことだ。まったくもって苦笑しか出ない。
この俺が。すべてを復讐のためだけに捧げて汚泥の中を這いずって生きてきた、この俺が。
あんな世間知らずな姫君ひとりの拙い告白に胸を高鳴らせているなんて笑い話にもならない。


「―――はは、こんなはずじゃなかったのにな」


手で顔を押さえて天を仰ぐ。


「あの人がいるから、あの人が俺のことをかき乱すからよくない―――。いっそ、あんな人、消えてしまえばいいのに」


ひどい八つ当たりだ。大人げないにもほどがある。
けれど、俺はこの家を、この家の人間を壊すためだけに生きてきたのだ。
この家の連中に、絶望の意味を教えることだけが俺の生きる意味だった。


それを。
それが。


口唇が震える。泣きたいのと笑い出したいのと、今の俺はどちらがしたいのだろう。
それすら分からない。


―――姫様。やはりあなたは意地悪なお人だ。


この俺をたったのひと言でただの男にしてしまうんですから。
ぼんやりと笑う俺は今、きっとひどく間の抜けた顔をしているだろうと思えた。

 

―――そして、その夜のことだった。

 


藤田様が青い顔をして俺のところにやってきたのは。



「…え?姫様がいない?」


呆然と聞き返す俺に藤田様は硬い顔で頷いた。


「今日の午前、お客様が帰られてから誰も姿を見ていない。―――お前も知らないか…」


いつも無表情な人だが、こんな時まで顔の筋肉ひとつ動かないとは難儀な人だ。
他人事のようにぼんやりと考えるのは、それだけ俺も動揺しているということか。
だってほら。手足がどんどん冷たくなってゆく。頭の中がグラグラ揺れている。酸素が足りない。


息がうまく吸えない。ああ―――、まったく、この家令は一体なにを言っているんだろう。姫様がいない?この家からいなくなっただって?


そんなことがあるはずが―――。

 

―――私にだって、意地があるのよ―――。

 

否定しようとした俺の頭の中に、頑固な顔をした姫様の言葉が蘇ってくる。


「…そんな、まさか」
「どうした、真島。何か心当たりがあるのか?」


藤田様の声に俺はハッと我に返った。
慌ててごまかし、うまく藤田様を屋敷へ帰してはみたものの、それからしばらの間、俺は座敷に座り込んだまま動くことができなかったのだった。



翌日。



結局ひと晩経っても帰らない姫様を探して、屋敷中が上へ下への大騒ぎになっているなか俺は野宮家を抜け出した。途中の駅舎で袴から洋装に着替え、目深にハンチング帽を被る。
ちょっとした変装というやつだ。「野宮家の園丁」がこれから行くような場所をウロウロしていると一見してわからなければそれでいい。


繁華街の路地を抜け裏通りへ向かう小路を入る。いくつか角を折れ、やがてカタギの連中ならば決して近寄ることのないジメジメとした薄暗い道をしばらく行くと剥がれかけた看板がぶら下がる飲み屋がある。


そこが俺のこの街での拠点のひとつだった。


店に入るなり陰気な店番の親爺に組織の連中を集めるよう命じる。
男たちが集まるまでの少しの時間でさえ耐えられない焦りを覚えずにいられなかった。


「野宮百合子を探せ」


やって来たいかつい部下たちに指令をくだすと、男たちはわずかに眉をあげて問うように俺を見てきた。俺たちの商売である阿片売買に華族の姫様が何の関係があるのかと聞きたいのだろう。もっともだ。


「野宮子爵の令嬢だ。―――俺たちの“仕事”に関わる重要な人物だ。すぐに探せ。見つけ次第すぐに報告をするよう下にも伝達しておけ。いいな」


何食わぬ顔でそう命じると、男たちはそれなりに納得した様子で頷いた。知りすぎると長生きができないなんていう話はこの世界にはゴロゴロしている。深入りしないほうが身のためだと判断したのだろう。賢明だ。


「何らかの危険が迫っているようならば救出しろ。―――差し迫った危険がないようなら、そうだな。居場所だけ押さえておけばいい」
「それァ、アレですか?ご令嬢の、貞操の危機ってヤツもお助けしなくっちゃならねぇんですかね。高貴な身分の姫様とのオ●コときちゃあ、止めるなんてもったいねぇ。むしろご一緒に混ぜてもらいたいくらいですなぁ」


ヒヒ、と下卑た笑いを浮かべる部下に思わず舌打ちする。押さえきれなかったらしい殺気に、その場の男たちがビクリと固まった。
我ながら冷たい声で「ふざけるな」と吐き捨てる。
俺の形相に何を感じたのか知らないが、壊れた人形のようにガクガク震えて詫びる部下をもう一度睨み据えてから、俺は彼らに姫様の特徴を伝えた。
昨夜の俺を殴りとばしたい心地だった。


―――俺としたことが後手に回るなんて。後悔してもしきれない。姫様が消えたと分かった、昨夜のうちに動くべきだった。


箱入りの姫君が世間に放り出されて無事でいられるかなど分からない。
姫様にその気がなくたって、甘い言葉で人を騙し闇の中に消してしまうくらい、すぐにできる連中がこの街には大勢いる。そう、たとえば俺のような奴らが。


「わかったら即刻動け」


俺の言葉に男たちはそそくさと店を出ていった。
なにかあれば連絡を寄越せと親爺に言いおいて俺も店を出る。その足で姫様が行く可能性のある界隈を目指してしまう自分がおかしかった。


早く探さねばと焦る心の裏側で、なぜこんなに必死になるのかと疑問を投げる俺もいる。


そうだ。野宮の人間などどれほどひどい目に遭おうが知ったことではないではないか。
姫様だとてあの悪魔の血を引いている人間だ。死ぬより苦しい目に遭うのが応報というもの―――。


「…くそ」


立ち止まって足下に目を落とす。迷子になったような気持ちだった。
どうすればいいのかちっとも分からない。
姫様など知るものか。そう思うそばから、もしこの瞬間に姫様が危険な目にあっていたらと想像しただけでいてもたってもいられなくなる。


一瞬姫様の泣き顔が脳裏に描かれる。怯えた表情で助けを求めていた。
ただの想像だというのに、それでも全身の血が沸騰しそうだった。


「―――殺してやる。もしも、姫様に危害を加える奴がいたら、ありとあらゆる苦痛を与えて殺してやる―――」


吐き出された呪詛こそが何よりも俺の心の内を表していることを、本当は誰よりも俺が知っている。
どうして恋慕う姫様の危機を見過ごせるだろう。
憎いと思うそばから誰よりも愛おしいと感じてしまう。
これは最初に出会ったあの時から俺の中にずっと巣食っている二律背反だ。穢れた血の証なのだ。


俺は重い足を動かして、ただ姫様の―――あの人の姿だけを求めた。
そうやって日暮れまであてもなく町を彷徨い、彼女の姿を探し続ける。きっとどんなに遠くてもひと目見れば、それだけで俺には姫様だとわかる確信があった。


けれど、どの街角にもその影すら見つけられなかった。心底途方に暮れる。こんなふうに心細い思いをするなんていつぶりだろうか。


「姫様、……ひどいのはあなたのほうです。勝手にいなくなってしまうなんて、本当に、ひどい、」


思わず泣き言めいた呟きさえ洩らしてしまうほど、俺は疲れ果てていた。



―――『真島。どうして、どうして、…そんなひどいことを言うの』



耳の奥によみがえる姫様の声。
最後に聴いた姫様は涙の滲んだ声で、俺の名を呼んでいた。
胸が痛い。
あの人が俺を真島と呼んでくれたから、ただの仮初めの名だったはずの真島芳樹という人間はこの世に生まれたのだ。


穏やかで真面目で優しく。仕える主家に忠実な使用人。


そんな、犬の餌にもならないような凡庸な男を演じたままで、この数年あの家にいられたのは姫様がいたからだ。


すべてまやかしだ。なのに、そんな俺のことを姫様は好きだという。
ひとりの男として、好いていると。


今回の失踪劇だって、きっと俺のためにしでかしたことに違いない。
姫様の気持ちに応えられない俺をひどい男だといい、俺に見合う女になるとまで言い切ってくれた。
そのために彼女は家を出ていったのだろう。



「でも、だめです。どうしても、だめなんです―――」



ぎゅうっと胸を搾られるような切なさに俺は呻いた。


姫様。俺はあなたが愛おしい。心の底から、愛おしくてたまらない。
ほんの一日、その姿を目にしないだけで呼吸の仕方すら忘れてしまうほど、俺にはあなたが必要なんです。


けれど、だめです。俺と姫様はこの世で唯一惹かれあってはいけない者同士なんです。


―――なぜなら、俺たちは。
俺と、姫様は―――。



夕暮れに沈んでいく町並みに目を細める素振りで俺は涙を飲み込んだ。

 

その日から俺の目に映る世界は味気のない砂をまぶしたようなものになってしまった。


姫様は相変わらず見つからない。
箱入りの華族令嬢が、ここまで姿を消せるとは正直思っていなかった。


もしや、裏の世界の何者かが浚ってしまったのでは、と思い、ほうぼうに手を回してもみたが今のところそれらしい情報は入ってこない。


一方、野宮の人間たちは卒倒しかねないほどの惑乱ぶりで、一日中落ち込んだり、かと思えばヒステリイを起こして騒ぎ立て、それに疲れると気鬱と称して寝付いてみたりとかしまびすしいことこの上ない。
老害の殿様と奥方様は騒ぐだけで姫様が見つかると、本気で考えているのだろうか。無能にすぎる。
ろくでなしで放蕩者の若様はといえば姫様の名を譫言のように呟いて、毎日フラフラと外を探して歩いているようだった。まあ好きにすればいい。


おかしなことに、これまでは姿を見ただけで腸が煮えくり返るほど憎かった野宮の連中を見てもそれほど殺意を覚えなくなっている。自分でも現金なものだと思う。


姫様がいなくなった衝撃で、膨張し続ける一方だった積年の復讐心の気が抜けたというか、肝心の要が外れたような、一種の虚脱状態が続いていた。


そう。俺の毎日もまた変化していた。
朝から夕まで機械的に園丁の仕事を終えると、その足ですぐに部下と連絡を取り合う。
俺が表だって探せない分、気持ちは焦るばかりだがこればかりは仕方ない。


密かに警察と軍警に手を回して、身元不明の若い娘の死体が出ればすぐに報せるようにも手配した。
数日に一度の頻度で見つけた死体を報され、確認のために立ち会う。だが、そうした女たちの死体のなかに、幸いにも姫様のものはなかった。


中には阿片中毒で死んだとおぼしき女の姿もあったが、生憎とそんなもので痛むような懺悔の心など俺はとっくになくしている。
ただ、その死体が姫様でなかったことだけに安堵するばかりだった。


「―――手がかりはないのか」


姫様が消えてから一ヶ月が過ぎようとしている今日も、俺は最寄りの屋台で部下と落ち合った。
部下は俺の隣に座るなり気のいい勤め人の顔をして屋台の親父に酒を頼む。酒を飲むため肩を丸めて俯くと部下の目は一転して冷たい針のように細くなった。小声で囁くように会話する。


「それが、気になる話を仕入れましたんで報告します。この近辺の俥屋に聞き込んだんですが、ひと月ほど前、お屋敷の前の通りでどこかの良家の娘を乗せたっていう俥屋がいまして。その娘の特徴ってのが例の令嬢の特徴と一致するんです」


「―――俥屋か。それで、その娘をどこで降ろしたと?」


部下はここから三町ほど離れた学生街の名をあげた。
今、その街で更に聞き込みを進めていると告げると部下は屋台から出ていった。


俺は白湯を入れた湯呑みを手のひらで暖めながら困惑していた。
そんな街に姫様はいったい何の用で向かったのだろうか。
いくら学業が好きだといってもいまの姫様は学生ではないのに。
少し思案して、俺はそれ以上悩むのをやめた。いくら考えてもわかるはずがない。いまは部下の報告を待つだけだ。
だいたいあの人はいつも俺の予想もつかないことを軽々とやってみせては得意げに胸を張るのだ。
そう。たとえばあの夜会の夜、バルコニイでドレスの裾をまくりあげて脱走しようとしたように。


あの時の姫様の様子を思い出して苦笑ともため息とつかぬ息がこぼれてしまう。


脚を見せたまま、きょとんと俺を見下ろすあの人の表情。まったく。彼女ほど可愛らしい人を俺は知らない。



「あなたくらいのものですよ、俺から仕事とあの目的を忘れさせてしまう人間は。……本当にあなたは仕様のないお姫様ですね」


姫様が無事を祈る俺の手の中で冷めきった白湯の水面がゆらりと震えた。

 


――――――…
―――…

 



村瀬ともこ。


カフェーの女給をしているという娘の名を口の中で転がしてから、俺はハンチング帽を深く被った。


部下が探り当てた幾人かの娘の顔を改めるため、俺はいま街角に立っている。
最近この街に現れた若い娘は、件の村瀬という娘で最後だった。これで駄目ならまた最初から捜索し直しだ。


もっとも、写真一葉すらない状態でここまで捜せただけましなのかもしれない。
祈るような気持ちで俺はじっと息をひそめる。


少し待つと店の裏口から数人の娘たちが姿を現した。
女給たちだろう。明るい女たちの話し声が風に乗ってこちらに流れてくる。
その女給のなかのひとりを俺は食い入るように見つめた。


「姫様」


仲間とじゃれあうように歩く明るい笑顔を振りまく少女は、遠目であっても間違うことなどありえない。
姫様だった。
このひと月余の間、ずっと探していた人だった。
ああ、けれど、髪の毛が―――、あの美しい髪が綺麗に断ち切られている。
ぬばたまのような艶やかな黒髪だったのに。どうしてそんな。
惜しむ気持ちはもちろんあるが、それ以上に彼女の無事を確かめた安堵のほうが大きかった。


「姫様…、ご無事で…」


全身の力が抜けそうだった。
駆けだして行き彼女を抱きしめたい衝動を寸でで堪える。
だめだ。まだ、だめだ。
―――決めていたことだった。


家を出てまで姫様はいったい何をしようとしているのかを確かめるまでは、まだ、顔を見せるべきではなかった。
今回の家出はほぼ間違いなく俺が姫様を拒絶したことが原因だ。ならば姫様は俺にどうしてほしいのか。それを確認せねばならなかった。


それと同時に、姫様がどれほど手を尽くしても俺はその想いに応えることはないのだと納得させるだけの状況を作らなくてはならない。


「……、」


だけど、本当は姫様を探しあててしまえば屋敷に連れ戻さなくてはならなくなるのが怖いだけなのかもしれなかった。
屋敷に戻れば姫様は誰かと結婚させられるだろう。
俺が握る野宮の負債がそういう策を取らせずにはいられないのだから。


そうでなくても、俺が姫様の想いに応えるわけにはいかない以上、姫様はいずれ誰か―――俺以外の男のものになるのは必然だ。


遠ざかる姫様の背を見送りながら俺はいつまでもぼんやりと佇んでいた。
砂を噛むような苦さが口に広がる。


俺を選んで舞い降りてきた胡蝶を、再び野に放たなくてはいけないのか。放ちたくなどないのに。むしろ大切に閉じ込めてしまいたいのに。


きっと俺の人生は失いたくないものばかりを失い続けてゆくだけのものなのだろう。いくら汲んでも指の合間から洩れてゆく水のように、すべてをなくし続ける。
ああ、なんて意味のない生きざまだろうか。


―――押し寄せてくる虚無感に抗うことすらできない。


この身の血潮をすべて入れ替えることができたなら、俺はあなたを腕に抱くことが許されるんでしょうか。ねえ、教えてください、―――姫様。


青臭く、埒もない苦悩に焼かれる自分が無様で心底厭わしかった。

 

―――それからというもの。


俺は時間を作っては姫様のいるカフェーの周辺に足を向けた。
自分のことながらこの執念はいかがなものかと思うが、気がつけば足が向いているのだから仕方ない。
部下にも命じて店内での姫様の様子も探らせている。


報告によれば姫様の評判は上々とのこと。
不器用者の姫様だが気合いと根性は令嬢らしからぬものを備えていらっしゃるため、案じていた給仕も危なげなくこなしているらしい。
今では酔客を捌くのもうまいものだということだ。
女給仲間との仲もよく、いじめられたり泣かされたりもしていない様子と聞き、まずは安心した。


店の経営者も、この業種の人間にしては真っ当らしく、悪い噂も流れていない。裏の仕事もしていない優良経営であることを確認して、俺は肩の力がようよう抜けた。


そんなある日の昼のこと。


午後の休みを願い出て姫様の様子を見に来た俺の視界に、ひとりの学生がそわそわと店の様子を窺っている姿が目に入った。


痘痕の浮かぶ若い顔が緊張と興奮で赤くなっている。
手にした小さな花束を眺めてはそのたびにだらしなく顔を緩めていた。いったい何を想像しているんだろう。
通りすがりの人間が訝しげに学生を見ていくが、学生はそれどころではないようで、ひとり息を荒くしていて気持ち悪い。
俺も同じように店の様子をうかがう人間だが、彼ほどあからさまではない分目立っていないはずだ。


なんとなしに気になって学生を観察していると、半刻もしない内に店の裏口から姫様が出てきた。
手に買い物籠を持っているから遣いでも頼まれたのだろう。
見れば姫様を見た途端に学生の背筋がシャンと伸びている。
しかも、姫様のあとを追うようにして学生も歩きだすに至っては俺も彼の目的を悟らざるをえなかった。


「…なるほど」


こぼれた声が思ったより低くなった。


学生は姫様のあとを追う。その学生を俺がつける。


なんだか妙な具合になってきたが、このあとの流れが気になってしまい、俺は舌打ちしつつも後を追った。


人気の途切れた煉瓦通りの途中で、学生は姫様を呼び止める。「ともちゃん」と裏返った声音に姫様が驚いたように振り向いた。
見つかってはいけないので、姿は見えても声までは聞こえない距離で、俺はなぜか息を詰めて二人を見守っている。
どう見ても傍から見れば怪しい人物だ。
それでも立ち去ることなどできるはずもない。


学生は傍目にも混乱したように懸命に何かを言って、やがて懐から取り出した手紙を姫様に手渡した。
驚いたように目を見張り、小首を傾げてその手紙を受け取る姫様。
丁寧に手紙の表をを改めたあと、まっすぐに学生を見上げて微笑んだ。口の形が「ありがとう」と動くのを確認して俺の胸が鈍くうずく。腹の奥がモヤモヤする。


学生は舞い上がったように何度も首を振り、すっかり忘れていたらしい花束を姫様に差し出した。
薄紅色の小さな花束を受け取って、姫様は―――恥ずかしそうに、嬉しそうに笑んでそっと花束に頬を寄せた。
ほんのりと染まった頬が愛らしい。遠目だというのに、途端に走った強烈な既視感に俺は眩暈をおぼえた。


「―――っ」


口唇を噛む。そうしなければ何をするか自分でも分からなかった。
野宮の庭で俺が差し出した花を受け取った姫様の微笑みが蘇る。嬉しそうに、はにかんで笑う姫様を見るたびに俺は胸の中に小さな灯が点らせていた。あの時と同じ表情。
花を手渡したのは俺ではないのに。見知らぬ男から受けた花でも姫様はそんな表情を見せるのか。


いつのまにか俺は、姫様が手にする花は俺だけが捧げるものだと思いこんででもいたらしい


―――勝手なものだ。
姫様を手に入れることなどできぬと分かっているつもりで、目の前で見せつけられる光景にしたたかに打ちのめされている自分の無様さに吐き気を催す。


何の障害もなく、わずらいもせずに姫様に想いを伝えることのできる全ての人間が妬ましい。
ああそうだ。これは嫉妬だ。


姫様に近づくもの。姫様の心に懸かるもの。姫様に触れるもの。そのすべてを排除したくてたまらない。


天地神明にかけて、あの人は俺のものだと叫びたてたい。


できるはずなどないのに。
許されるわけがないのに。


学生と姫様はまだ何か話している。
少し困ったように笑う姫様と真っ赤になって身振り手振りを大きくして話している学生。


―――目の前の光景をこれ以上見ていることができなくて、俺は足早にその場を立ち去った。


まるで負け犬のようだと、そう思いながら。



その日の夜、野宮の使用人棟のせんべい布団に横たわり、天井の染みを数えながら俺は擦り切れそうになった己の心をもう一度覗いた。


 

もうやめよう。
これ以上、何を惑うことがあるだろう。


考えても考えても、結局はそう結論が出る。当たり前だ。


姫様の想いを受け入れることなど最初からできない話だった。


姫様がどれほど俺を好いていても。俺が姫様をどれほど愛していても。


憎い敵の娘を。同腹の妹を。
そんな相手を受け入れることなどできるはずがない。


―――姫様を愛しいと思う分だけ、自分の中の血と欲望に果てしない嫌悪が沸き上がるのだから。
こんな気持ちはもう捨て去ってしまいたい。


だから、もうやめよう。
半端に姫様の告白を聞いてしまったのがよくない。
所詮、この屋敷での生活など仮初めのものだ。


明日。


そう決める。


明日、もう一度あのカフェーに行こう。
そして姫様をこの屋敷に連れ戻そう。
姫様がまだ俺のことを好きだと言うのなら、断固として拒否しよう。嫌だと言うのなら、いっそひどい言葉で傷つけてしまえばいい。
俺のことなど嫌いになってしまうくらいのひどい言葉で。


ああ、だけど。
―――そう思うだけだ。きっと俺にはそんな言葉を投げつけることなどできないんだろう。


姫様の綺麗な双眸が傷つけられて涙ににじむ様など見たくない。
あの瞳の中に俺への憎しみを見つけてしまったら、俺はそれだけで狂ってしまうかもしれない。


胸の痛みに喘いで寝返りを打つ。
夏の夜の寝苦しさだけではない落ち着かなさに深く息を吐いた。


「とにかく、明日だ。明日、すべて終わらせてしまえばいい―――」



口の中で何度も念ずる。自分に言い聞かせるために何度も何度も。

明日。
姫様をこの屋敷に連れ帰り、あとは、最初の予定通りに復讐を完遂すればいい。


―――もう、すべての野宮の人間を陥れようとは思わない。
姫様がどこかに無事に嫁したあとで、あの男と繁子様を片づけるだけだ。
じわじわと、なぶり殺すように。―――それだけでいい。俺の復讐はあの二人の苦痛と命だけでいい。



不思議なことにかつては想像するだけで溜飲を下げることができた復讐計画を脳裏に描いても、今となってはその全てが色あせて感じられた。
浜田の両親の無念を思えば復讐くらいせねばならない。
ずっとそう思って生きてきた。
両親が俺の行動を喜ばないことくらい分かっている。あの素朴で優しい人たちが今の俺を見たら悲しむに違いない。


それでも、俺が生きていくためにはこの憎悪が必要だった。だからこの煮えたぎる怨嗟に進んで身を浸してきたのだ。
野宮の人間を滅ぼすためだけに、無辜の人々を阿片漬けにしてきた俺が、今さらここで手をこまねる訳にはいかなかった。


そうだ。もはや俺には復讐しか残っていない。
姫様を拒絶すると決めた以上、俺がやりたいことなどもうこれくらいしかないのだから。



すべては明日。


そう心に呟きながら、俺は浅い眠りに落ちてゆく。


―――このままあの人を誰も知らない場所へ攫っていってしまいたい。


眠りの際。ほのかに生まれるそんな欲望を生まれるそばから殺してゆく。


求めてはいけない。許されることではない。


そう何度も心に言い聞かせる。


開けはなった窓から吹き込んだ夜風に混じる、甘い百合の香りに俺の心はわずかに慰められた。


 

<2011・7・13>
 

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