茜 雲 (真百合)
真島は二週間ぶりに日本の土を踏んだ。
帰国するなり部下の報告を受け、積み重なっていた確認事項と処理案件を片づけ終えるとすでに翌日の夕刻に迫る頃合いになっていた。
乗り込んだ自動車の後部シートに背を預け、真島はため息をつく。
仕方がないこととはいえ、真っ直ぐに家に帰れないのは真島にとっては辛いことだった。
本当ならばすぐにも自宅に帰り、夫の帰りを待ちわびている妻を抱きしめ安心させてやりたいのに。
だが、真島の「仕事」の基盤が揺らげばそれだけこの国での百合子の安全が脅かされることになる。
闇の阿片王とまで呼ばれる真島の妻というだけで、彼女の命が狙われる危険は常にあるのだ。
彼の足下をすくおうとする有象無象が、いつ百合子の存在をかぎつけ、その身に危害を加えるのかと考えると、それだけで真島の脳髄は煮えるような怒りと妻を失うかもしれないという恐怖に飲まれる。
普通の家庭の妻として生きている彼女の身には、どんなわずかな陰だって落としたくない。
彼女だけは幸せに。
それこそが真島の最大の願いだった。
だからこそ、幸せを脅かすような災いの芽は、その芽が出る前にすべて摘み取るべきだった。
真島のアラを嗅ぎつけようと蠢きまわる小五月蠅い商売敵の顔を幾人か思い浮かべて真島は舌打ちした。まったく忌々しい輩ばかりだ。
昏い目をした真島の耳に、ゴオン、とエンジンをふかす音が響く。
タイヤのきしむ音がして真島は家の近くに着いたことを知った。
窓の外には見慣れた町並みが見える。真島の目がほんのわずか緩んだ。
ほどよい場所で車を降りて明日の予定を運転手に告げ、顔を上げたときには、真島の心はもはや百合子の元へ向かっている。
(この道をゆけば百合子が待っている)
彼女が待つ場所だけが真島の帰るべき家だった。
辺りに迫る夕陽の赤に背を押されるように自然と歩みが早くなる。遠くに響く豆腐屋のラッパの音色もどこか寂しげに聞える。
早く、早くと急かす心のままに真島は懐かしの我が家の前にたどり着いた。
大陸と日本を股にかけ、巨万の富を得ている闇社会の首魁が住まう家とは思えないほどこじんまりとした家。それが真島と百合子が暮らす家だった。
「ただいま、百合子」
玄関の扉を開くのももどかしく真島は留守を守る妻に声をかけた。
―――おかえりなさい!芳樹さん。
耳に甘く優しい妻の声で応えが返ることを確信して、真島は夕餉の支度を整えているはずの妻の姿を探す。
だが真島を出迎えたのはしんとした沈黙だった。真島は訝しげに眉をひそめて室内を見渡した。
「百合子?」
台所に妻の姿はなかった。―――では寝室に?
「どこにいるんだい、百合子」
さして部屋数のない小さな家。だがひと部屋ずつ見て回っても、いるはずの百合子はいない。
心臓が冷たい手で握られたように冷たくなり、真島は表情を険しくした。知らず呼吸が浅くなる。
再び台所に戻った真島の表情はより一層厳しさを増した。
卓子に置きざりにされた見覚えのない手ぬぐいが目に入ると、真島の脳裏に警鐘が鳴り響く。
そして。夕陽の橙色に照らされた台の上。火から下ろされた鍋からは湯気がのぼっていた。
「…さっきまでは、いたのか…」
切られたばかりの葉物も笊にあげられて調理を待つばかり。水に濡れたまな板と包丁が無造作に置かれている。
最近は通いの女中に端下仕事を頼んではいるが、真島が出張から帰る日だけは百合子がひとりで夕餉をこしらえていた。
―――今日帰宅することを百合子には知らせている。だからこれらは彼女の支度のあとだった。
ほんの今しがたまで甲斐甲斐しく料理をしていた百合子の姿が目に浮かぶようなのに、彼女の姿だけがどこにもない。
「―――」
巡らせた視線の先。流しの下に落ちて乱雑に散らばる笊や籠の存在に気がつくと真島の双眸は冷たく凝った。
(玄関の鍵はかかっていなかった。部屋の様子からも百合子がついさきほどまで家にいたのは確かだ)
だが夕餉の支度の途中で家から出るなんて今までなかったことだ。では―――支度の最中に誰かが来たのか。
見慣れない手ぬぐいに再び目を向ける。
その誰かと百合子は家を出た。
―――落ちた笊を片づける余裕もないほどに急いで?
そんなことがあるだろうか。
冷静にならなければと思うそばから、考えたくない事態を想定して鼓動が激しさを増してゆく。
耳の奥でドンドンと鳴る自分の心臓をうるさく思いながら、真島は拳をきつく握りしめた。
ギリ、と音が鳴るほど奥歯を噛みしめる。
そうしなければ叫びだしてしまいそうだった。
(いったい誰が百合子をこの家から連れ出したんだ)
誰が。なぜ。彼女を。どこに連れていった。最愛の妻を。かけがえのない妹を。百合子を。誰が、真島から奪おうとしているのか。
怒りと恐怖で思考が散らばる。
「―――く、そ…っ」
血を吹きそうな激情が一瞬の内に全身をかけ巡ったが真島はそれを意志の力でねじ伏せた。荒く息を呼吸をした次の瞬間には意識は冷たく冴え渡っている。
それはこれまでの人生の内で真島に培われた第二の本能とでもいうべきものだった。
頭に血が上った人間は結局のところ何も得るものなどないのだ。欲しいものがあるのならばどこまでも冷静に、どこまでも非情であらねばならない。
ひとつ大きく深呼吸をした真島は忙しく頭を巡らせた。いま真島と事を構える愚を侵す可能性のある人物を次々と脳内にリストアップしていく。
留守中の護衛としてこの家の周辺に配置していた部下たちに誰が出入りしていたのかを確かめなくてはならなかった。
震えそうな体を押さえこみ、爪が食い込むほどに拳を握りしめた真島が踵を返そうとした時だった。
―――ガチャリと玄関の扉が開く音がした。
薄暗い部屋に茜色が差しこみ真島の顔を照らし出す。日没前の夕陽の眩しさに真島は目を眇めた。
誰かが入ってくる。残照を背に立つ細い人影は真島を見とめて驚いたように動きを止めた。
「まあ!」
明るく優しい声が真島の耳を打つ。
「…あ…」
目を見開いて固まっている真島へ、その人影は扉を閉めるなり小走りに駆け寄ってきた。
「おかえりなさい!芳樹さん!」
それは―――、白く小造りなうつくしい顔に涙まじりの笑顔を浮かべて真島を見上げているのは妻の百合子だった。
「早かったのね、暗くなる頃に帰ると聞いていたからもっと遅くなるかと思っていたの。お出迎えできなくてごめんなさい、芳樹さん」
すん、と鼻をすすった百合子は手にした手桶を卓子に置くと、指先で涙をぬぐって恥ずかしそうに微笑んだ。
「無事に帰ってきてくれたから安心しちゃったみたい。あなたの顔を見て泣いちゃうなんて子供みたいね、私」
「―――…」
見上げた先の真島の答えが返らないことに気が付いた百合子が不思議そうに首を傾げる。
「芳樹さん?」
その声をきっかけに真島の表情がクシャリと歪んだかと思ったら、次の瞬間には百合子の体は真島の腕にきつく抱きしめられていた。
「―――姫様…ッ」
怯えた子供のように震える真島の掠れた声が耳を打ち、百合子は目を見開いた。
「姫様…!―――百合子…!」
「よしき、さん?どうしたの、私はここにいるわ。ねえ、もしかして、お出迎えできなかったことを怒ってるの?」
白い手が真島の背中に回されて、宥めるように撫でてゆく。
加減のない力で抱きしめられても百合子は黙って腕の中に捕らわれたままでいた。
少しすると落ちついたのか真島の腕の力が緩められる。真島は百合子の肩を掴んで身を離すと妻の顔をゆっくりと顔を覗き込んだ。
「……取り乱してごめん。ただいま、百合子」
はにかんだような笑みを浮かべて真島は囁いた。真島が落ちついたと見てとった百合子もほっとした顔で肩の力を抜く。
「おかえりなさい、芳樹さん。無事に帰ってきてくれて本当に良かった。……ふふ、あなたの目も赤くなっちゃったわね」
夫の目元が少し赤くなっていることに気が付いた百合子の指先がそっと真島の頬に添えられた。
その手を取って指先にそっとくちづけを落とすと真島は照れたように眉を下げる。
指を絡めてしっかりと握ると、もう片方の腕で百合子の腰を抱き寄せて、真島はようやく安心したように息を吐いた。
「帰ってきたら君がいなかったからちょっと驚いてしまったんだ。だってほら、床に笊が散らばってるし、……何かあったのかと心配したよ」
「そうだったわ。急いで飛び出してしまったから落ちたまんまにしてたんだった」
「―――そんなに急いでどこに行ってたんだい。夕餉の支度の途中だったんだろう?」
声の調子に少しばかり咎めるものを感じたのか百合子はすまなそうに小首を傾げて目線を卓子へと向けた。つられて真島も見た先には手桶の中に豆腐が一丁、水の中で揺れている。
百合子は真島の胸に手を置き、上目で夫を見上げながら口を開いた。
「あのね。ご近所で評判の豆腐屋さんが家の前を通りかかったの。いつもはこの辺りに来る前に売れ切れてしまうから、めったに買えないのよ。
―――それでね、今日は芳樹さんが帰ってくる日だし、どうしても食べさせてあげたかったの」
豆腐屋を追うため、取るものもとりあえず手桶を持って家を飛び出した際に笊や籠が棚から落ちたという。
なるほど、と得心した真島は、もうひとつの疑問を問いかけた。
「じゃあ、その手ぬぐいは誰のものなんだい?うちのじゃないよね」
「あ、それはお向かいの小母さんの忘れものよ。豆腐屋さんにお豆腐が残ってるって教えにきてくれたの。家を出るとき小母さんも一緒に出たから忘れてしまったのね」
明日返してあげなくちゃ、と無邪気に笑う百合子の笑顔に、真島は自分の杞憂を笑いたくなってしまった。結局、真島にとって百合子の無事以上に大切なことなどないに等しいのだ。
「そうか。よかった。君が無事ならいいんだ。―――よかった」
「いやだ、芳樹さん。大げさね。無事でよかったって言うのは私の台詞だわ」
おかしそうにクスクス笑う百合子に真島も困ったように笑いかける。
「―――百合子はおっちょこちょいだからね。俺の留守中に怪我でもしてやしないかって、心配でたまらなかったんだよ」
「もう!子供扱いしないでちょうだい。私はもう人妻なんですからね。前みたいにお転婆ばっかりしてるわけじゃないのよ」
人妻、と告げる時だけ恥じらう風に頬を染める百合子の匂やかさに、真島の胸はぎゅうと締め付けられてしまう。
こみ上げる情動のままに真島は百合子の頬に己のそれを擦りつけた。
口唇を妻のこめかみに押し付けて、真島は感極まったように百合子の名を呼んだ。
「百合子、百合子…、なんだかまだ夢を見ている心地だ。あなたが俺の妻で、帰る家で俺を待っていてくれるなんて信じられない」
「夢なんかじゃないわ。そんなこと言わないで。―――私はあなたが無事に帰ってくるのを毎日毎日ずっと祈っていたんだから。これが夢だったら、私きっと悲しくって胸が破けてしまうわ」
「俺もだ。…これが夢だなんて思いたくない。―――百合子…、ああ、百合子、」
百合子の頬にくちづけを落としながら、真島は百合子を抱く腕に力を込めた。
「―――ねえ。…だったら、お互いにこれが夢じゃないってことを確かめなくちゃいけないんじゃないかな。…そう、思わない?」
熱い吐息が百合子の耳を打ち、低められた声音の甘さに百合子はため息を零す。
「…ん、ん、……確かめるって、まさか、」
うなじのほつれ毛を艶めかしい手つきで愛撫されて百合子が小さく身震いした。困惑した顔で真島を見上げる。
だが、まさか、と言いながらも百合子の眼差しには既に熱がこもっていることを真島は気づいていた。
同じように、百合子を見つめる自分の視線に抑えきれない欲情が滲んでいることも。
絡み合う視線を逸らすこともできぬまま、今日最後の太陽の光が消えてゆき薄暮に沈む台所がにわかに濃密な空気を孕んでゆく。
真島が囁きよりももっと小さな声を発した。
「―――そう、その、まさか」
普段は朗らかな笑みを湛える真島の目が、夜の気配を纏わせてゆく様に百合子の背筋はぞくりと痺れる。
ちゅ、と小さなくちづけを繰り返して真島は百合子の炎を煽っていった。
弾んだ呼吸の中で百合子が腕から逃れようと懸命にもがくのを難なく捕らえて、真島の手が妻の体を忙しなく探ってゆく。
「ね、ねえ、芳樹さん。―――お夕飯が、…お、お豆腐が、あ、」
「あとでちゃんと食べるよ。でも、いまは君とふたりでこれが夢じゃないと、確かめたいんだ」
掠れた声に耳を擽られる。頬を押さえられて深いくちづけを受けると百合子はそれ以上何かを考えることなどできなくなってしまった。
鼻腔をくすぐる甘い香りに脳髄が痺れるような熱に侵されてゆく。
互いの体臭が混じり合うとそれだけで体の芯がうずくようだった。
は、と喘ぐように呼吸をする、それさえも甘い口唇に吸い取られていき、百合子はクラクラする酩酊感に目を閉じた。
目を閉じても、真島の腕は百合子を抱きしめたまま消えはしない。
―――そうだ。これは毎夜見た夢ではない。真島は帰ってきたのだ。百合子の元に。
嬉しくて百合子の目からポロリと涙が零れてしまう。
真島にも自分を感じてほしい。そう思う心のまま百合子は夫の背中を掻き抱いた。
「―――もっと感じてちょうだい。私が夢なんかじゃないって。あなたの側にいるって。私にももっと感じさせて、お願いよ、」
「ああ、ああ、―――夢なんかじゃない。俺はいまここにいて、君を抱いているんだ。これが夢であるものか―――!」
愛しい、という想いが形になるのならばそれはきっと彼女の姿をしているに違いない。
それほどに百合子の存在は真島の情動を―――本能を揺り動かさずにはいられない存在だった。
「―――君だけだ。君だけがいれば、それだけで俺は―――」
抱きしめあう腕の中、肌から立ちのぼる甘い花の香に呑まれるように二人は理性を手放した。
了
<2011.7.5>
この記事にトラックバックする