金色の約束 【藍丸父と母】 転生後の再会シーン
入り組んだ小路を何度か曲がる。
垣根からはみ出た金木犀の濃く甘い香りが風に乗って飛んできた。
(―――ああ、いけない。もうこんな時間だわ。早く行かないとお師匠さんに叱られてしまう)
そうでなくても時間に厳しい師匠のことだ。
稽古の時間に遅れたなんてことになれば、さぞや厳しいご指南の時間になるだろう。
女学校から帰宅して着替える間もなく家を飛び出してきたとはいえ、間に合うかどうか。気ばかりせいてならない。
道具を包んだ風呂敷を腕に抱いた少女は、草履の音もパタパタと、お下げの髪を揺らして道を急ぐ。
臙脂の振袖と藍紫の袴。
黒曜石の瞳に薔薇色に上気した頬した娘の年の頃は十五・六であろうか。
あどけなさの残る少女の顔は、勝気な性格は透けて見えるような愛らしい面立ちをしていた。
娘は走る。
―――そこの角を曲がればすぐそこがお師匠さんの住まうお屋敷だ。
そう。すぐ、そこ。
すぐ、そこで、
(あなたに―――もう一度―――、)
「…え?」
束の間、胸を走り抜けた甘い衝動に、少女が訝しく思う間もなかった。
その角を曲がってすぐだった。
目の前に佇む誰かにぶつかったのは。
「きゃっ」
弾かれて後ろに転びそうになった少女は、だが、地面に尻餅をつくことはなかった。
その誰かの腕が少女の腕を引き寄せて支えたからだ。
代わりに手に持った風呂敷がバサリと音をたてて落ちていったが、少女はそれに気を向ける余裕はなかっ
た。
ごめんなさい、と慌てて口をついて出た言葉も尻すぼみに途切れてしまう。
「―――…」
なぜならば、少女の腕を掴んでいる相手に目を奪われていたからだ。
目の前の相手は、その男は真っ直ぐに娘を見つめていた。強い眼差しに思わず気圧されるほどに力ある視
線。
それは今まで少女が見たこともないような美丈夫だった。
(まるで、どこかの御殿の殿様みたい)
それほどに目の前の青年は浮世離れした存在に思えた。
若様ではなく、殿様と思ったのは、この青年の持つ独特の空気からだ。
うつくしい佇まいはそこにいるだけで空気が張り詰めた冷たいような面差し。
けれで、物静かに見えてどこか傲慢な風にも見える。
着ているものはごく当たり前の羽織袴だ。
だが当たり前なのに、この世のものとも思われぬようななんとも不思議な雰囲気を醸してもいる。
敏感にそれを感じ取った少女は目玉がこぼれ落ちそうなほどに見開いて青年を見つめた。
(誰かしら。とても不思議な様子をしているけれど)
そうやってぼんやりと青年を観察していたら、青年は端正な眉をひそめて少し不機嫌そうに鼻を鳴らした。
初対面の相手をじろじろ見るなんて、随分と不躾な娘と思われたに違いない。
少女は慌てて手を引くと、頭を下げた。
「ごめんなさい。まさか人がいるなんて思わなかったんです」
それに答えてか、青年はつと顎を上げて少女を見下ろすと張りのある声を発した。
「遅い」
「え?」
「遅いと申しておる。 お前はぜんたい、幾年俺を待たせれば気が済むのだ」
「……あの、わたし、あなたと前にお会いしたことが?」
「うむ、今生では初めてになるな」
傲慢な物言いだが内容はかなり突拍子もないことだ。
少女もまた面喰って瞬きをすると、改めて目の前の男を見つめた。
「こ、今生ってあの、どういう意味でしょうか」
少しばかり及び腰で少女が男に問いかけると、男はわずかに頬笑んでみせた。だが、答える声音はどこまでも偉そうだった。
「むろん、お前が今の生を受けてから、俺と初めて会ったということだ」
「は、はあ…、そう、です、よね。はじめて会いましたよね。わたしとあなたは…」
「―――まったく。随分と待たされたものだ。いつか会いに行くから待っていろとお前が言うのでこの百年ほど待っていたが、いつどこに生まれるかまではさすがに俺も分からぬのでな。
探し当てるのに骨を折ったわ」
そこで男は言葉を切ると、まるで愛しい者を見るような眼差しで少女を見つめた。
「だが、ようやく見つけた。待たせたな―――」
「―――あ」
とくん、と心臓が鼓動をひとつ飛ばした。
(なんなの、この人―――)
訳が分からない。突然現れた男が言うことは不可解極まりなく、普通に考えたらお頭の回りが悪いのかと考えてしまうような内容だった。
そう思うのに、男の言葉にどうしよいもないほど胸の奥が震えてしまう。込み上げてくる情動は少女の知らないほどの深みから沁み出してくるようだった。
男は手の背で少女の頬を撫でてゆく。愛しげに。壊れものに触れるような恭しさで。
傲慢で張りのある声にわずかな甘さを滲ませて男は囁いた。
「この俺を待たせるなぞお前くらいなものだ。―――気の長い俺に感謝するがよい」
少女の頬を我知らず涙が伝ってゆく。
自分が泣いているのかも分からないまま、少女は自分を見つめる男をただ見上げていた。
胸に去来する誰かの―――自分の―――声が甘く震える。
(―――あなた。―――懐かしいあなた―――)
心の内に嵐のような感情がうねり、すべてが攫われてしまいそうになってしまう。
それは―――それは―――歓喜だった。
男を見るだけで魂が震える。
やっと己の半身と出会えたのだと、体の奥。本能のすべてがそう少女に教えてくれた。
男の腕に引き寄せられるまま、少女はその胸を頬を埋めて再会の喜びに酔いしれたのだった。
了
<2011.7.27>
世は大正ロマン華やかなりし頃。な感じで。
この記事にトラックバックする