解 夏 (青枝と千雅也)
鬼火が死んだ。
フセガミを単独で攻め、矢車野分の暗殺を試みるも、その師匠に返り討ちに遭ったらしいというのがキの隠密らが集めた情報から推測される死因だった。
「―――」
青枝は己の膝の上で軽い寝息をたてる千雅也をぼんやりと見下ろした。
元々白く面長な印象の主はここしばらくの心痛のせいか、その面差しは一層鋭く、そしてある種の儚さが加わったように思える。まるで限界まで張りつめた弓の弦のようだと青枝は思った。
矢が放たれたあとはただ、一直線に終わりに向けて飛んでゆくだけ。
思い描いたそれはまるで千雅也の生き方そのものを現すようで、青枝の背筋は不吉な気配にざわめいた。
「―――なんで何も言ってくれないんですか」
眠る千雅也を起こさぬように、そっと呟いた恨み言は、外の熱暑と裏腹な、広く冷んやりとした座敷に吸い込まれて消えてゆく。
常に凛として、己に怠惰も欺瞞も許さない真っ直ぐな生き方をする千雅也は、たとえ誰に裏切られようと誰が死のうと、自分の在り方を曲げようとしなかった。
いっそ妥協してくれれば。我慢ならなければ時に逃げも隠れもしてくれていいのに、と青枝や五郎太が切なく思うほどに。
今だってギリギリの淵で堪えているくせに。
弱音も後悔も、その高潔な心に潜む薄暗い衝動だって、それが千雅也の抱える闇ならば青枝は喜んで受け止める覚悟がある。
だが、千雅也はそれをよしとしないこともわかっていた。
どれだけ傷つき苦しもうと、誰かに寄りかかることなどできない。いや、寄りかかる方法を知らないのだろう。
今朝受けた訃報はそんな千雅也にこれ以上ない衝撃を与えたのだ。
あんなふうに、己を責めてくれるなら誰でもいいと言わんばかりに青枝に弱音を吐いてしまうほどに。
苦しそうに青枝にすがった千雅也の表情を思い出し、侍従は我知らず拳を握りしめた。
―――鬼火姐さん。
脳裏に浮かんだ彼女の面影に、青枝は思わずこぼれそうになった涙をグ、と堪えた。
鬼火が千雅也へ向けていた一途な思いを青枝はこれまでずっと見てきていた。
だから、彼女がなにを考えてひとりでフセガミへ向かったのか、人の機微に鈍くなりがちな青枝でさえもわかった。
鬼火は許せなかったのだ。
千雅也の全幅の信頼を受ける矢車野分が。
矢車野分がその信頼を裏切ったことも、裏切られた千雅也が傷ついてゆくことも。
そして、その様をただ見つめているしかできない自分のことも。
わかりすぎる。だって自分も同じだから。
幼い頃に千雅也に忠誠を誓って以来、青枝はひたすらに千雅也を守るため。千雅也の隣にあって恥じない自分であるためにのみ自分を磨いてきた。
一輪の百合の花のように端然とそこにある彼が、何者にも傷つけられぬように。何者にも曲げられぬように。
―――千雅也が千雅也であるためには万難を排してきた。
その千雅也を。五郎太と青枝の大事な主の心を無惨に踏みにじって、尚その心を引きつけてやまない矢車野分が憎くてたまらない。
「……やっぱ、」
―――殺してェなァ。
腹の底からこみ上げてきた望みがポツンと胸の中に落ちてゆく。
疲れ果てて青枝の膝枕で寝息をたてる千雅也の髪をひとつ撫でて青枝は胸に呟いた。
(大将がこれ以上傷つくことはないんですよ)
(もし望むなら、今すぐにでも矢車野分を討ってきたっていい)
もっとも、そんなことを望むことがないことも、青枝はよく知っていたけれど。
膝の上で眠る主の黒髪を優しく撫でつける。
わずかに汗ばんで張り付いたほつれ毛をそぅっと直すと、千雅也はくすぐったそうに眉を寄せた。
いとけない子供のような無防備な表情に青枝は小さく笑った。
疲労がこびりついて眠る主を邪魔するものがいないように祈りながら、青枝は静かに千雅也の髪をゆっくりと撫でつづけた。
晩夏の空に響く蜩のまばらな鳴き声。
座敷を吹き抜ける風は早くも秋の冷たさをはらんでいた。
「―――ねえ、大将。全部片づいたらまたみんなで月見酒でもしましょうね。五郎太と朱人と、―――鬼火姐さんを呼んで、みんなで酔いつぶれるまで飲みましょう。
今度は大将も途中で消えたりしちゃダメですからね」
全部。全てが片づいたなら。
また何もわずらうことなく笑い合う日がくることを、青枝は心底から願った。
開け放たれた障子の向こうから緩く吹いてくる風を受けながら、青枝は切ないばかりのため息を誰にも知られぬようにひとつ落とした。
そして。
(俺が、殺してやるよ。矢車野分)
その胸に生まれたひとつの決意も、今はまだ誰にも知られることはなかった。
了
<2011・5・3>
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