闇 夜 【弧白×藍丸】
夜の闇は深かった。
もうじき子の刻になろうかという頃合。
それこそ草木も息を潜めて眠りにつくような闇夜だった。
先ほどまではそちこちで上がっていた虫の声も、ずっかりと音色を潜めてしまっている。
―――空に架かっているはずの月も、ぶ厚い雲に隠れてわずかな光すら射していない。
麓の町から一刻ほど山道を上がった場所にそこはあった。
そこはどこぞの大店のご隠居が隠棲でもしているような静かな佇まいを見せる屋敷だった。
昼ならば体裁よく整えられた生垣と、真新しい畳を敷き詰めた座敷を開け放して、縁台に腰を下ろす人の良さげな老爺を見ることができただろう。
いや。
今も縁台には誰かがいた。
墨を溶かしたような闇夜に、ひそりと蠢く影がふたつ。
シャン、と薄い羽音が響く音が微かに響き、ややしてぼんやりと明かりが灯る。
狐火だ。
幻めいた熱のない炎がふらりと宙に現われる。
小さな明かりが闇をわずかに切り開き、縁台に腰を下ろす影が露になった。
「―――いい闇夜だぁねえ」
皺枯れていても張りのある男の声がして、なあ、と傍らの誰かに同意を求めた。
「そうだね。 星ひとつ見えやしない。まあ。 たまにはこんな静かな夜もよかろうよ」
答える声は、思わず寒気を覚えるほどに冷たく―――艶めいて響いた。
だがその声は低く、女のそれではないと知れる。
さらりと衣擦れの音がして、声の主が姿勢を変えたのがわかった。
ほのかな明かりに浮かび上がるのは妖しいまでの白い肌と、長い銀の髪。腰まで届くほどに艶やかな銀髪が光を弾いて妖しく流れる。
優雅にして凄艶。
女性的にも見える風姿とは裏腹に、そこに見て取れるのは成熟した男の艶だ。
男は妖艶な眼差しでチラリと老爺を見遣ると、己に見入る老爺の様子にクツリと喉奥で笑った。
その面ですら、やはり空恐ろしいまでに美しかった。
思わず唾を飲んでから、老爺は二度、三度と瞬きをして気を落ち着ける。
―――これで男だってんだから、もったいねえ話だよ。
老爺は内心で苦笑すると、縁台に置かれた盆から杯を差し出し酒を勧めた。
「どうだい、一献」
「ふふ、―――じゃあ、いただこうかねぇ」
白い美貌の男は杯を受け取り、注がれた酒を優雅な仕草で飲み干した。
この老爺に酌をさせたなどと老爺に仕える従属共に知られれば、ただではすまないかもしれないと思った。
が、しかしそれすら想像するとおかしくてならず、男は皮肉に口辺に笑みを刻んだ。
―――老爺はこの辺りに根を張る大妖だった。
狸の化身で、なかなかな曲者。
表では人間に住まい商いをし、裏では妖の世界で従属を使い何やら企みごとに精を出す。
江戸に根を張る嘉祥と似たようなものだ。
もっとも、到底羽織の格には程遠いが。
そう胸の内へ皮肉に呟く美貌の男は、齢千数百年を数える狐の化身だ。
名を弧白(こしろ)という。
弧白の隣では老爺が手酌で酒を飲み干している。
いつもなら忠実な従属が丁寧にお酌役をしているであろうに。
今は弧白と老爺の二人きり。
老爺が呼べば誰ぞ飛んでくるだろうが、今、この屋敷には二人のほかは気配がない。
―――随分とまあ、信用されたものだね、私も。
白い狐の妖が満足そうに頷くのを見て、何を思ったか老爺はさらに酒を勧めた。
そうして自分の杯にも注ぐと飲み干して大きく息を吐いた。
「ああ、うめえ酒だ。 ―――時に弧白、お前さんとは随分と長い付き合いになったもんだなあ」
「なんだい、藪から棒に。 確かに、思ったよりは長いあいだお前の顔を見てきたけれどねえ」
「そうだ。 まあ、最初の頃は狐なんぞに誑かされちゃあなんねぇと思ってたもんだがよ」
「ふふ…っ、今だって誑かしているのかもしれないよ?」
フン、と老爺は鼻を鳴らして弧白を睨めた。
「そりゃわかってるよ。 だがお前さんにゃあ、この50年なにかと助けられてきたからな。―――だから、そろそろ聞いてみようと思ったのさ」
古狸の声に凄みが籠もる。
「お前さん、何が目的でワシの側をフラフラしてるんだい?」
弧白のわずかな機微さえを見通そうとするかのような目が炯々と光を放つ。
「なんだい。今更。 何度も言っただろう?ただの気まぐれ、さ。 あとは何となくここの気が私に合ったってくらいかねぇ」
はぐらかすように弧白は肩をすくめて、老爺の目をからかうように見返した。
老爺のしばらくそうして弧白を見た後、フウと息をついて杯の酒を呷った。
「―――この辺で一度借りを返しておこうかと思ったまでよ。 言いたくねぇのなら、それでいいがな」
妖の世界は貸し借りが重要。
どうやらこの妖は柄にもなく弧白に借りを返そうとでも思ったらしい。
たまらず弧白は吹き出した。
「―――まったく、何を言い出すかと思えばそんなことかい。大丈夫。 私はただしたいようにしているだけさ。 借りだなんだのつもりじゃぁないよ」
「お前ぇはそう言うがよ―――、まあ、俺とお前の仲だ。俺にしてほしいことがあったら言いな。 話くれぇは聞いてやってもいいぜ」
借りを返すと言う口で、話だけしか聞かぬという抜け目のなさはさすがに長年生きてきた古妖だけはある。
感心しながら弧白は肩をすくめて「じゃあ、その時は頼むとするよ」と答えてみせた。
それにしても、言うにこと欠き「俺とお前の仲」とはまた。弧白は頭の芯がしんしんと冷えてゆく感覚を振り切って杯をあおぐ。
同じく酒を飲み干した老爺は、弧白の答えもそこそこに次の話を打ち明けた。
「まあ、ここからが本題だがよ。またお前の力を借りてぇんだが、聞いてくれるかい」
「おやおや。 借りを返すって言葉はただの前振りかい」
「茶化すんじゃねぇよ」
からかう弧白に老爺は嫌そうに顔をしかめ、話を継いだ。
「俺ぁよ、やっぱり我慢がならねぇんだよ」
「なにが、だい?」
「やはりどうあっても許せねぇんだ。―――あの方の一粒種がのさばってることがよぉ」
「―――」
「もう150年の昔だがね、俺にとっちゃぁ、つい昨日のことのようだよ。 羽織様をなくしてなんの生かと、今でも血の涙を流す心持だ」
「羽織……」
噛み締めるように弧白が呟くのに、老爺は強く頷いた。
「お前さんも知ってるだろう? 一紋を解散させた原因が人間の女だってことは。―――そして、その女にはあの方のお子が宿っていたことも」
弧白は老爺に悟られぬように微かに切れ長の目を細める。
「俺はよぅ、それが許せねぇのよ。聞けば、江戸の町でのうのうと羽織役に付いてるってぇじゃあねえか」
あってはならないことだと、老爺は恨みの籠もった目を中空を睨んだ。
たかが半妖の子があの方と同じ羽織の格になることはあってはならないことだと。
「…だから?」
やけにゆっくりと弧白は問うた。
その声の底に潜むピンと張った冷たい意志に、老爺は気づけなかった。己の怨嗟に囚われてしまったがゆえに。
「―――殺してやるのさ。 あの方と同じ炎は、ふたつとあっちゃならねぇんだからよぉ」
ヒヒ、と歪んだ嗤いを零すと、好々爺めいた顔が歪み、その狂気が露になった。
狂気の滲む目が弧白を捉える。
赤く濁る老爺の目が弧白の涼しげな眼をじぃと見つめた。
「手伝え。弧白。 お前だって、あの方の側にいたんだ。他人事じゃぁいられねぇんじゃないか?」
「……」
「俺たちの羽織様を汚すヤツは消しちまおうじゃあないか」
「―――やれやれ。何を言うかと思えば。俺たちの、なんぞと一緒におしでないよ。 私はあいつの従属じゃあないんだからね」
弧白は顔を伏せると袖口で口を押さえ、愉しそうに肩を揺らして笑った。
大きく開いた着物の襟足から覗く白い肩が、艶かしく浮かび上がる。
老爺はその態度に気色ばんで声を荒げた。
「それじゃあ、協力はできないってことかい?」
「―――ふふふ」
弧白はただ妖しく笑い続けるのみだった。
いささか気を殺がれた様子で老爺は探るような声音に変えて弧白に問いかける。
「俺とお前さんの仲じゃあないか。 一紋の弔い合戦だと思って、手を貸しちゃあくれないか?」
「―――私と、……お前の、仲、ねぇ―――?」
静かな、静かな声が弧白の口から零れた。
殺しきれない怒りが籠もる声に周囲の空気が冷たく張り詰める。
「……弧白?」
老爺はそこで始めて弧白の様子に目を向けて、腰を浮かした。
弧白がすう、と面を上げて妖しく光る目を向けた。
「それはねぇ、軽々しく言っていい言葉じゃあないんだよ?」
「なに?」
警戒する老爺を見据えたまま、弧白はするりと手套を外して宙に手を伸べた。
途端に噴き出すような負の気配が辺りに立ち込めた。
―――召還だ。
気づいた時には遅かった。
老爺の足元には歪な闇がぽっかりと穴を開けており、巨大な手の形をした闇が老爺を引きずり込もうとしていたのだ。
夜の闇よりなお昏い、血と恨みを溶かし込んだ煉獄の闇―――。
奈落の底へと続くという、弧白の召還に抗う間もなく老爺は飲み込まれようとしていた。
「弧白! 貴様ぁぁぁぁ!!」
慌てて従属を呼んだが、どういうわけか誰ひとりとして現われない。老爺は愕然と弧白を見た。
それを冷然と見遣ったまま弧白は冷たく微笑んだ。
「お前の大事な従属はねぇ、私の従属に足止めを喰らっている頃だろうよ」
もう命もないかもしれないねぇ、と弧白は嗜虐の笑みで告げると宙に差し出した手をゆっくりと握りしめていった。
動きに合わせて老爺を飲み込む闇の手のひらも収束してゆく。
もはや逃げられるものではない。
断末魔の悲鳴をあげる古狸を、弧白は侮蔑を込めた視線で見据える。
「まったく。手間を取らせてくれる。いい加減、その狸面は見飽きたところさ。 やっと始末できるなんて嬉しい限りだねぇ」
弧白は冷たい怒りと侮蔑の籠もる眼差しで半ば以上闇に飲まれる妖を見遣ると、死を宣告した。
「貴様ごときにあの子を傷つけさせる訳にはいかないんだよ。―――その咎を地獄でたっぷり悔いるといい」
きつく拳を握ると同時に老爺の悲鳴ごと飲みこんで闇は地面へと吸い込まれていった。
―――あとに残るは深い闇。
虫の声ひとつせぬ夜の中にあるのは白い妖ひとりの気配ばかり。
ややして小さなため息が闇の中に響いた。
「まったく。 三下風情が手間取らせてくれる」
用心深いあの古狸の守りをかいくぐり、信頼を得て殺す機会を伺うのに50年をかけた。
随分な忍耐を強いられた日々を思い返すと、弧白はやるかたないと目を伏せる。
敵はまだまだ残っているのに、と。
―――それでも満足だった。
弧白のただひとりの羽織を狙う魔手を未然に防げたのだから。
ふ、と弧白は手套を外したままの指先で己の唇を押さえた。
口中に蘇る甘い味わいに、白い妖は陶然と目を細める。
―――「俺と、お前の仲だろ…」
遠いあの日。
別れの際に、照れたように呟いた主の姿が思い出される。
「―――藍丸」
そぅっと口の中に転がしたその名は、弧白の胸の内に甘い疼きをもたらした。
名を呼ばうだけで愛おしさに狂いそうになる。
あの日に流した主の涙の味。
甘く、甘く―――切なくも甘い、あの涙。
泣きだしてしまっているのに、それでも揺るがぬ真っ直ぐな瞳。
行くなと。
俺の側にいろと。
幼子のように濡れた声で弧白の袖を引いた愛しい主。
―――それでも、それを押し殺して弧白の望むままに征伐の命を下した若き羽織。
「藍丸。 …私の羽織―――」
無限の愛しさに胸を焦がしながら、弧白は主の面影を思い出すように睫毛を伏せた。
風が吹いた。
月を隠す厚い雲がわずかに切れて、冴え冴えとした真円の月の光が降り注ぐ。
闇夜にひとり残された白い妖の姿をも、月は静かに映し出してゆく。
美しいその光に目を細めて弧白は月を見上げた。
もうじき老爺の従属を殺した白銀狐たちが戻ってくるだろう。
ようやく次の敵の元に行くことができる。
―――そうしてまたひとつ、主の元に帰る日が近くなるのだ。
うっすらと弧白は微笑した。
かつて藍丸が目にしたのと同じ、柔らかく優しい笑みだった。
「―――早く会いたいねぇ、…藍丸」
私の唯一の貴方。
弧白の唇から切ないため息が零れた。
冷たく静かな月の光。
この光は愛しい主のことも照らしているのだろうか。
健やかな寝顔を映し出しているのか。
それとも寝付けぬ夜にひとり、窓から月を見上げているのだろうか。
そうであればいいと。
せめてこの光だけでも分かち合えていればいいと、白い妖は嫋々と震える胸中にそう呟いた。
<Fin>
<08・9・8>
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