螺旋恋情 (継×夕貴)
余裕がない。
磨き上げられた廊下を歩みながら継は己の顎を撫でた。
片袖を粋にはだけ、派手やかに大ぶりの柄をあしらった衣をまとった洒脱な形をしていても奇異に見えぬのは、彼が持つ独特の雰囲気のせいだった。
遊び上手で余裕のある趣味人。彼を見た鬼はそんな印象を持つだろう。
深紅の艶やかな髪を無造作に調えた鬼は、常にまとう飄々とした表情を曇らせて柄にもなく重いため息など零している。
「―――やれやれ。一体どうするべきかな、これは」
独り言を吐息まじりに呟いて継は廊下の向こうに見える離れの屋に視線を向けた。
「今さら、手放せるわけもないものを」
心の内の葛藤を滲ませた声で、それでも継は自嘲の笑みを漏らす。
そうすることで己の葛藤を少しでもごまかしたかったのかもしれない。
中庭を挟んだ離れ屋には継の守魂である夕貴の住まいがある。夕貴は継の守魂だ。
―――元は継の父である焔の守魂であった少年を、かすめとるようにして腕の中に囲った負い目が継にはあった。
だからこそ、最後の一歩が踏み出せないでいる。
肝心なところで臆病になるのは父譲りなのか―――、そこまで考えを巡らせて継は苦笑した。
己の魂を預ける大切で愛しい守魂に弱いのは全ての闘鬼に共通した特性なのだ。なにも継ばかりが臆病なわけではない。
「けれどやはり、自分がこんな風になるなんて不思議な気分になるね」
ふぅ、と継は息をつくともう一度離れ屋を見やった。
今年も庭に咲き誇る陽花が見頃を迎えている。
今頃、夕貴は庭を愛でているのかもしれない。
縁台で陽花を見上げる守魂のどこか悲しげな横顔を思い浮かべると、継の胸がうずいた。
―――もうじき今年も紅夜が来る。
この時期になると夕貴は少しだけ落ち着かなくなる。
守魂が闘鬼から受ける誘香をほとんど感じていないからだ。そうと言われたことはないけれど、おそらくはそうなのだろうと継はあたりをつけている。
―――つまり、夕貴は継を己の闘鬼と認めきれていないから、それが負い目になっているのだ。
「つくづく難儀な関係だね、私たちは」
生産性がまったくない。
彼の父なら。―――夕貴の真の闘鬼である焔なら。夕貴は誘香を感じることができるのだろうか。数年を経た今も。
腹の奥底から得体の知れない苛立ちがこみ上げてきて、継は舌打ちをすると、その場から跳躍した。
ひと蹴りで屋根の上に上がり、次のひと飛びで屋敷を囲む煉瓦造りの塀の端に舞い降りる。
猫を思わせるしなやかな動きに合わせて、着崩した衣の袖が羽のように揺らめいた。
長い深紅の髪が優雅に波打つ。微かな笑みを湛えた血色の目がゆっくりと眼下の鬼を捕らえた。その目は常の余裕を欠いた刺すような殺気に彩られていた。
塀の下にいたふたりの鬼が怖れるように数歩後じさると継の眼差しが一層冷たくなる。
他者に命をくだすことに慣れた支配者の声が響き渡った。
「先ほどから私の屋敷になに用かな。こそこそと覗き回るとは随分と礼を失した行為じゃないか」
「け、継さま」
「オレたちは、別に―――」
鬼たちは青ざめて首を振った。
ふ、と継は微笑した。見る者を戦慄させるような冷たい微笑みだった。
「別に、ねえ?毎日やって来ては屋敷の内をうかがうのに、何の意味もないわけがないだろうに。いったい何が狙いなのやら。
もしかして―――彼に心を奪われたのかな。ふむ。あの美しい魂色に魅せられるのは理解できる」
深く艶を帯びた声音に優しく撫でられ、鬼たちはガクガクと震えだした。
ユラリと継の腕が伸びる。袖に描かれた鮮やかな花の紋様が風にはためいた。
「それとも―――、誰かの命で彼を奪いに来たのかな」
「! 違います、そんなことをしに来たわけじゃ……」
「どちらでも構わないよ。愛しい守魂を、私の許しも得ずに覗き見ようとする不心得ものには、二度と血迷わぬようにきついお灸を据えてやるだけだからね」
金粉を帯びた紅の陽炎が継の体を包み込む。
どこまでも美しく優雅なのに、恐ろしいまでの殺気だった。
舞を舞うような動きで継の腕が宙をかくと、その動きに合わせて継の胸から彼の内角が姿を現す。
次期焔の名に背かぬ美しく力に満ちた刃が現れると、鬼たちは青ざめた顔で茫然と継を見上げた。
猫のように目を細めて継は宣告する。
「さて。私はいま、少しばかり機嫌が悪い。手加減はできないかもしれないからね。―――目的を吐くのなら今の内だ」
深く響く声の底に潜む隠しきれない殺気に、鬼たちは怯えも露わに小さく呻いた。
☆☆☆
部屋のベッドに寝転んで、夕貴はぼんやりと天井を見上げていた。
時刻は夕。窓から差し込む夕陽に部屋の中は茜色に染められている。
まるで、彼の髪の色のようだな、と考えてから夕貴は眉をひそめて寝返りをうった。
「くそ。…なんだよ、それ」
苦々しい気持ちで夕貴は枕に顔を埋めた。
―――今年ももうじき紅夜が来る。
闘鬼と守魂が本能のままに睦みあい交わり合う時期が。
むろん継の守魂である夕貴も、彼と紅夜を過ごすようになって久しい。
毎年、この時期が夕貴は苦手だった。
闘鬼と守魂を結ぶ、もっとも強い証である誘香を、夕貴はあまり感じることができなかったからだ。
焔の時はあれほど濃密に感じることができた香りを継には感じることができないという事実が夕貴を打ちのめす。
だから毎年、自分の内の未練をまざまざと感じて自己嫌悪に悶えるのが夕貴の常だったのだ。
けれど。今年は。
去年とは違う意味で夕貴は困惑していた。
「…なんで、今頃になって―――、こんなことに、」
泣きだしそうな顔で夕貴はため息を零した。
「どうしよう…」
途方に暮れた子供のような弱音を零した夕貴は、ふと何かに気づいたように枕から顔をあげると部屋の入口に目を向けた。
一拍おいて、入口の扉を叩く音がする。夕貴が答えるより先に扉が開き、予想通りの姿が現れた。
「継…」
スラリと均整の取れた艶めいたその姿は夕貴の闘鬼―――継だった。
継は足音もさせず茜色の部屋に紛れ込みベッドに近づくと、夕貴の頬に手のひらをあてた。
「泣きそうな顔をしているね。―――昼寝でもして怖い夢でも見た?」
声は優しいのにその表情だけがわずかに複雑そうに歪んで見えて、夕貴は訝しく思う。
「別に、泣きそうになんてなってないよ。継は心配性だな」
意識して明るく答えると身を起こす。
ベッドに座り直しながら不自然にならないように気を付けて、夕貴は継の手から逃れた。
―――今は継のそばにいるのが少しだけ苦しい。その場しのぎだったとしても、あまり触れ合いたくなかった。
夕貴の動きに合わせて頬から離れた継の手が力なく垂れた。
いつもなら、軽口のひとつやふたつは降ってくるのにそれもない。
どうしたんだ、と夕貴が瞬きすると同時に軋むような継の声が囁いた。
「ならば、ここにいることが耐えがたくなったのか。もう、私の守魂ではいたくない?」
低い声に滲む言い知れぬ苛立ちに気づいた夕貴が何かを言おうと口を開こうとした。
だが、次の瞬間には継の身体が覆いかぶさってきて夕貴をベッドに押し倒していた。
肩を押さえこむ手の強さに背筋が冷たくなる。真上で光る血色の眼差しに絡めとられ身動きが取れなかった。
いつも飄々と笑みを浮かべる継の目に浮かぶのは怒りとも苦痛ともつかぬ感情だ。夕貴の頭の中に警鐘が鳴り響く。
ベッドに押さえつけられているのに何も言わない継との沈黙に我慢できず、夕貴はやみくもに口を開いた。
「…継、なんだよ、いきなり。僕がこの屋敷から出るなんてこと、ありえないだろ」
けれど、継は夕貴の言葉を笑い飛ばした。常にない荒んだ闘鬼の笑みに夕貴は目を見開いた。
「そうかな。ここ最近、君は私を避けているようだったから、私のことが嫌いになったのかと思っていたよ」
「っ!」
―――気づかれていたのか。
今度こそ夕貴の顔から血の気が引いた。
しかし、継は夕貴の様子にいっそう表情を硬くして、肩を掴む手に力を込めた。痛みに呻いた夕貴にかまわず、継は自嘲めいた笑みを零した。
「知らないと思っていたのかい?私はこれでも君の闘鬼なんだよ」
「ち、ちがう、継…、嫌いなんかじゃ、」
「屋敷の周辺には、焔が放った隠密がいてね、焔の命で君の様子を探りにきたと教えてくれたよ」
夕貴の言葉など聞いていないように継は言葉を続けた。その言葉に意外さに夕貴は大きく目を見開いて首を振るった。
「……は?ほ、焔が、なんで……って、継、痛、い…っ」
「君を連れ戻しにきたのかな。何年も知らんふりをしておいて、今ごろ君を迎えにこようとでも言うつもりだとしたら、まったく許せない話だと思わないか」
「や、だ、継…!」
ギリ、と強くベッドに押さえつけられて夕貴は身を震わせた。
夕貴を見ているのにどこか遠くを見ているような継の目が夕貴の不安を煽る。
いつだって穏やかに夕貴を包み込んでくれた継。その継がいまは夕貴を押さえこみ、気づかう素振りさえ見せない。
夕貴は混乱して継から逃れようと腕を突っ張らせた。
だが、その動きは逆に継の何かに触れたようで、継は苦しそうに顔を歪ませ音がしそうなほど歯を食いしばり、守魂の腕を掴み上げるとその頭上で押さえつけた。
「私から逃げるなんて許さない。―――夕貴、君は私の、私だけの、守魂だ」
縋るような声音だった。
打たれたように夕貴は抵抗を止めて、そっと継をうかがう。
―――なにか、いま、とても大事なものを失おうとしているのではないかと、そんな気がしたのだ。
「継…、どうして、そんな当たり前のことを―――」
「当たり前、か。―――そうだね、普通の闘鬼と守魂ならばそんなことは自明の理だ。だけれど、君には―――」
そこで言葉を切った継は、大きく息をつくと夕貴の首筋に顔をうずめた。掴まれていた手を解放され、同時に腰を強く抱きしめられていっそう体が密着する。
継がなにを言いたいのか、夕貴には痛いほどにわかった。わからないはずがない。
(僕が、焔の守魂だったから。だから継はこんなことを言うのか)
今までずっと、継は焔に心を残す夕貴を赦しつづけてくれた。ふとした折に焔と重ねてしまう夕貴に優しく頬笑みすらして、夕貴のどっちつかずな惑いごと抱きしめてくれていた。
(―――だけど、気にしないはずがない。僕は、また、肝心なことを見ない振りして、全てをなくしてしまうつもりなのか)
かつて焔から手を放してしまった記憶が蘇り、夕貴の胃の腑が冷やりと震えた。
(いやだ。もう二度とあんな思いはしたくない。怖がって一歩も動けないでいる内に大事なものをなくしてしまうような失敗を、もう犯したくない)
後悔と継を失うかもしれないという恐怖に押されるまま、気がつけば夕貴は継の背に腕をまわしていた。
ビクリと腕の中で震える継の様子に夕貴は口唇を噛んだ。いつだって余裕に満ちて、タラシ全開な色気を振りまく鬼が今は見る影もなく夕貴の仕草ひとつに震えている。
そんな継が見たいわけじゃないのだ、と夕貴は体と同じく震える声で継の名を呼んだ。
「僕は、継の守魂だよ。―――たとえ、焔が迎えにきても、僕は継のものだ」
「―――」
「継を避けてたのは、本当だ。そばにいたくなかったから。―――だ、だけど、継が嫌いなんじゃない。そんなこと、絶対ない」
夕貴の言葉に大きく震えた継の身体を抱く力を強めて夕貴は早口にまくしたてた。ここで止めてしまったら、二度と言う勇気が持てないとわかっていたからひと息に告げる。
「そばにいたくなかったのは、僕が―――、僕が―――、継の、誘香が強すぎるせいで、息ができなかったからだよ」
言葉尻がどんどん小さくなったけれど、とにかく全てを言いきって、夕貴は継の答えを待った。
恥ずかしくてじわじわと顔が赤くなってしまう。いまごろは首筋まで赤くなっているに違いない。
「な、なんとか言えよ、継」
沈黙に耐えきれずぶっきらぼうに反応をせかすと、覆いかぶさる鬼の身体がゆっくりと身じろいだ。
衣擦れの音が夕陽に沈む部屋にやけに大きく響いて、夕貴はごくりと息を飲んだ。
「それは、本当かい?」
くぐもった声が首筋の辺りでして、夕貴は小さく頷いた。
「嘘じゃない。いまだって、むせかえるくらいに甘ったるい匂いがして胸が苦しいくらいだもの」
「―――夕貴、」
身を起こした継に手を引かれてベッドから起き上がると、目の前にいた深紅の鬼が茫然とした顔で夕貴を見つめていた。
視線で穴が開くのなら、今ごろ夕貴の身体は穴だらけになっているに違いない。食い入るように見つめられて、夕貴は赤らんだ顔をごまかすように継を睨んだ。
「な、なんだよ、そんなに見るなよ」
「信じられない。―――君が、私の誘香を感じてくれるなんて―――」
茫然と繰り返す継に、夕貴はなんだか泣きたいような気分になった。
だけど、こんな場面で泣く訳にはいかないとばかりに、夕貴は微笑んだ。
「今ごろになってこんなことになっちゃったから、混乱してたんだ。―――僕はずっと継に甘えてただろ?なのに、今さらこんなこと言ったら継に呆れられるかもしれないって思ったら、怖くて誘香を感じてることを認められなかった」
だけど、と夕貴は継の手をとった。
「もう、部屋中が継の香りでいっぱいだ。―――信じろよ、僕は継の守魂だろう?」
答えはなかった。
ただ力いっぱい抱きしめられた。
継の腕が痛いくらいに夕貴の身体を抱きしめる。
守魂の柔らかな茶色に髪に愛おしそうに頬ずりしながら継が泣きそうな声で囁いた。
「信じるよ。夕貴。―――私の愛しい守魂―――」
夕闇がせまる部屋の中で、闘鬼と守魂はひとつの影になったままいつまでも離れることはなかった。
<了>
<2011.6.7>
この記事にトラックバックする