箱庭楽土 (継×夕貴)
夕貴は庭というには広すぎる敷地の奥の木立の前で木の上を見上げていた。
じっと見上げるその目が先ほどから見つめる先には、太い枝に絡まる蔦の合間に鈴なりの木の実が生っている。
この季節に熟する淡い緑と赤に染まった実は甘くて少しだけ酸っぱい。
先日、継に教えられて食べたところ思いのほか美味しくて、夕貴は今日も探しにきて見つけたのだが、その実が手が届きそうで届かない高さに生っているため手を出しかねていた。
「…うーん、やっぱり登るしかないかな」
眉間に皺を寄せた夕貴がブツブツと呟いた。
「木登りなんて久しぶりだし、この木、なんだか登り辛そうだし。―――ん、でもいけるかな」
そこまでして食べたいのか、と問われれば首を傾げるが、だがせっかく捜し当てたのだから一個くらいは食べておきたい。幸いそれほど高い場所ではなかった。
ちょっとだけ食い意地をはった夕貴が、腕まくりをして木の幹に手をおいた時だった。
「夕貴」
名を呼ぶ低く落ち着いた声音が近くでしたと思ったら、腰を誰かに引き寄せられてしまった。
「う、わっ」
慌てた夕貴が振り返ると、そこには予想通りの姿があった。
艶やかな深紅の髪を背に流し、見た者が魅了されずにはいられない笑みを浮かべた長身の鬼。
仕草のひとつひとつが様になるっていうのは羨ましい限りだ。
「いきなり抱きつくなよ。びっくりするだろ」
その鬼を咎めるように見上げた夕貴が口唇を尖らせると、鬼は「ごめんごめん」と笑ってみせた。
腰からはなした手で夕貴の手に軽く触れる。ひどく艶めいた眼差しが甘さを含んで守魂の顔をのぞきこむ。
「けれど、私の守魂が木登りなんて勇ましいことをしようとしているからね。怪我でもされては私の心臓がもたない。慌てて止めにきたというわけさ」
「大げさだな、継は。大丈夫だよ。いくら僕だって木登りくらいはできる。それにそんなに高くないだろう?」
苦笑した夕貴が木を見上げる目線を追って継も顔を上げた。
その先に生る果実を見て、得心した継はひとつ頷いた。
「スグリか。確かに、そろそろ食べごろだね」
「あれを取ろうとしたんだけど、手が届かなくてさ」
「なるほど。だからヤンチャをしようとしたのか」
継は笑って、でもね、と続けた。
「この木を登るのは一苦労だよ。見てごらん、樹皮がなめらかでおうとつがないだろう?足がかりもないから慣れない者なら手こずるだろうね」
鬼が撫でた木の幹は真っ直ぐでほとんどへこみもない。
夕貴の世界のサルスベリという木に少し似ている気がする、と思いながら、夕貴は小さくため息をついた。
「ちょっとぐらいなら登れるかと思ったけど、やっぱ難しいかな」
「少しぐらいなら平気かもね。だけど、この木の樹皮に長く触れているとかぶれてしまうんだ。私は君の肌が赤くなって痛むところは見たくない」
「―――かぶれるんだ」
慌てて木から手を離れる夕貴に継は軽やかな笑い声をあげた。
「では、こうしようか」
言い終わらぬ間に継の腕が夕貴を抱き込んだ。
継の甘い香りがフワリと鼻腔をくすぐる。
あ、と思う間もなく、夕貴の腰に腕を回され、次の瞬間には体が浮き上がった。
「―――ちょ、っと、継!なんだよこれ」
「ほら、このくらい持ち上がれば手が届くだろう?」
子供のように抱き上げられた夕貴が継の肩にしがみつくと、継は楽しそうに笑った。
頬を赤らめた夕貴のしかめっ面を下からのぞいた継が、機嫌のよい猫のように目を細めて「かわいいねぇ」と囁いた。む、と夕貴の眉が困ったように下がる。
「……だから、可愛いって言われても嬉しくないんだってば」
「まあまあ、機嫌をそこねないで、夕貴。私の守魂を言い表す言葉はいくらでもあるけれど、私にとって、君は間違いなく可愛いんだから、賛辞のひとつと思って受けてくれ」
「賛辞って…。もう。本当に雫といい、君といい、その言葉しか出てこないっておかしくないか?」
ブツブツいう夕貴を、さあお取り、と継がうながす。
早く下ろしてほしい夕貴も諦めて、手を伸ばすとスグリの実をもいだ。ひとつ。そして、もうひとつ。
手のひらに収まるくらいの木の実を満足げに見て、これでいいよ、と夕貴が言うと継は小首を傾げてみせた。
「それだけでいいのかい?もっと生っているよ」
「これだけでいいよ。そんなにたくさん食べないし。僕と継の分だけならこれで十分だろう?」
夕貴の言葉に継はひとつゆっくりと瞬きした。
珍しく虚をつかれた顔をしていることに、かえって夕貴が驚いてしまう。
「ど、どうかした?なにか変なこと言ったか?」
「―――いや、」
かぶりを振って継は微笑んだ。
「ただ嬉しかっただけさ。そうか、夕貴と私の分か。―――うん。いいね、きっと美味しいに違いない」
いつもの余裕たっぷりでどこかに含みありげな笑みではなく、心の底からこみ上げてきた嬉しそうな笑いだった。
素のままの継の表情に、今度は夕貴が赤面する。
反則だ。そんな顔をしてみせるなんて。
木からとった果実を分けるという、そんなことくらいでこんなに嬉しそうに笑うなんて。
のぼせたみたいに頭の中が真っ白になり、胸の中がざわざわと落ちつかなくなる。どうにも継を直視できずに夕貴はウロウロと視線を逃がすと狼狽した自分をごまかした。
「そんなことくらいで喜ぶなよ。変なヤツ。―――ほ、ほら、もういいだろ、いいかげん下ろせよ」
早口にまくしたてると継は笑い声を放って、夕貴を抱く腕の力をいっそう強めて悪戯げに守魂を見上げた。
「もう少しだけこのままでいてもいいかい? 私はいますこぶるいい気分なんだ」
言葉通り、血色の目を嬉しそうに細めた継の眼差しが夕貴を見つめる。
継の視線に絡め取られた心地で夕貴は息苦しさすら覚えてしまう。
きっとこれはこんな恰好でいるのが恥ずかしいからに違いない。だからこんなにドキドキしてるんだ。
夕貴はわけもなく震える声を堪えて継を睨んだ。
「…っ、は、恥ずかしいから下ろしてくれ」
「つれないね、私の守魂は。だが、そんなところも愛しくてたまらないから困るな」
「いいいい愛しいって!なんでそんなセリフを素面で言えるんだよ君は!」
もがく夕貴の動きに合わせて継は器用な動きで腕の中の細身の体を抱きしめた。
「はは、やっぱり可愛いね、夕貴。これぐらいで照れることはないだろうに」
そう言って笑う継の笑顔に一瞬見とれた夕貴はもがくことを忘れた。
ジワジワと体温を上げてゆく自分が信じられない。夕貴は涙目になりながら最後の抵抗とばかりに悪態をついた。
「…うう、継のばか…」
――――――
―――…、
思えば。
夕貴は灯明に照らされた天井に影が揺れる様をぼんやり見上げながら乱れた息を吐いた。
ついさっきまで継に翻弄されていた熱がまだ身の内に残っているようだった。
そして、自分のすぐ隣に濃く甘い誘香を漂わせる継の気配を感じて、それが嬉しくて気恥ずかしかった。
思えば、あの時がきっかけだったのかもしれない。
ずっと継の側にいて。けれど夕貴は焔を忘れることができずにいて。
この屋敷にきてからは、継といればいるほど、焔と似ているところを探してしまう自分に自己嫌悪を繰り返すだけの毎日だった。
だけど、あの時、夕貴は初めて継自身の表情に心を奪われたのかもしれない。
焔の面影ではなく、継の言葉と笑顔をはじめて心に受け入れることができたのかも―――。
その時、伸びてきた腕に抱き寄せられて夕貴はぼんやりとしていた意識が戻ってくるのを感じた。
「なにを考えているのかな」
低く甘い声が夕貴の耳元をくすぐる。
さきほどまで抱きあっていた体はどこもかしこもあつらえたみたいにピタリをくっついてしまう。触れる素肌が心地よくて夕貴はうっとりと微笑んだ。
引き寄せられるままに継の腕の中に収まった夕貴は喉の奥で小さく笑って頬を継の胸元に押し付ける。
「―――継のこと」
夕貴の答えに継の動きが一瞬止まる。
次いで、深いため息が夕貴の髪を揺らした。
「それは、わざとなのかな。―――そうやって私の心を弄ぶとは悪い子だね、夕貴」
囁いた口唇が夕貴のこめかみに押しつけられる。そのまま鼻先と頬に触れた口唇がかすめるように一瞬だけ守魂の口唇に重ねられた。
くすぐったがって肩をすくめた夕貴を抱く腕に力を込めると、継の乾いた手のひらがゆっくりと夕貴の素肌をなぞっていく。
「…継、」
困惑した夕貴の声に継は低く笑うだけで手の動きは止めなかった。
間近に見える継の眼差しは壮絶な色香を放っていて、それだけで夕貴の胸を騒がせずにはおかない。
「だめだよ。夕貴。君があまりに嬉しがらせてくれるものだから、このまま寝かせてあげることはできなくなってしまった」
「…は?なに言っ―――、ちょ、継、さっきしたばっかりだろ、」
「夜は長い。君を恋うあまり眠れぬ夜を過ごそうとする哀れな鬼に、少しばかり情けをかけてくれてもいいだろう?」
ちゅ、と頬に押し当てられた口唇を夕貴の耳にすべらせて吐息を吹きこむように継は囁いた。
「君が私のものだと、もっとしっかり信じさせてくれないか」
「―――っ」
夕貴は息をつめた。なんと言っていいかわからず、夕貴はそっと継の背に自分の腕を回すと、広い背を抱き寄せた。
「僕は継の守魂だよ。―――そして君は僕の闘鬼だ。今ならはっきりとそう言えるよ」
ずっと継を不安にさせた。
その優しさに甘えて、どっちつかずなまま前にも後ろにも動けずにいた。
けれど、今なら。この心は継へ向けられているのだと分かる。焔のときほど無我夢中なそれではないかもしれないけれど、それでも今の夕貴にとって継が一番大切な鬼だった。
鼻腔をくすぐる甘い香りが部屋中に満ちていて息ができないくらいだ。甘い香り。継の香りだ。
―――僕の闘鬼だ。
気持ちのままに抱きしめるともっと強い力で抱きしめられる。
その腕の強さに深い安堵をおぼえて夕貴は継の頬にくちづけた。もうどこにも行けないように、ずっとこうして抱きしめていてほしかった。
「―――夕貴」
ため息のような継の声が歓喜に震える。お返しとばかりに下りてきたくちづけをうっとりと受けながら夕貴は触れてくる継の手のひらを受け入れた。
くちづけの合間に見上げた継の血色の眸は、いつもよりもひと際深く濃い赤をしている。
そう。これは継の目だ。ここにいるのは継以外の誰でもない。
本当はいまだって陽花を見れば彼を思い出す。けれど、以前ほどの罪悪感を感じはしないだろうと思えた。
消えない花の代わりにたくさんのものを夕貴に与え、その空白を埋めてくれたのは継だ。
そう心から思える自分が嬉しくて、夕貴は泣き笑いの表情で継にとりすがった。
「大好きだよ、継」
「ああ。―――私もだ。愛してるよ、―――私の守魂」
答える継の声は深く優しい。けれど、奥底に情動を滲ませて甘く錆びていた。
部屋を照らす微かな灯明のもとで、祈るように、誓うように。
愛を交わすふたりのうえにしんしんと夜が下りてきた。
了
<2011.6.12>
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