おん身は花の姿にて (真島→百合子)
花街の小見世が並ぶ通りは、少しばかり入り組んだ場所にある。
むっとするような熱気を孕む夏の夜。
ひしめきあい建ち並ぶ小見世のひとつのあがり座敷に通された真島は、窓枠にもたれかかるとぼんやり外を眺めた。
時刻は夜半。昼の間の熱も少しずつ冷め始める時分だ。
窓の下には提灯の灯りに照らし出された遊女たちが、得意客に身を寄せ甘えている。女たちの嬌声が耳に刺さるようで真島は顔をしかめた。
―――ざわついた夜の街の騒がしさが、今の真島にはひどくわずらわしく思える。
けれど今夜は、野宮家の使用人棟でひとり鬱鬱としているのも耐えがたい。今も、目を閉じれば脳裏にチラチラと閃く白い残像が真島を苦しめるのだ。
そんな時はやはりこういう見世で気鬱を晴らすよりほかなかった。
物思いを散らすように窓から吹きこむ夜風に合わせて座敷から女の声が聞える。
「ねえ、旦那さん。外ばっかり見てないで、こっちでお茶でも飲みましょうよぅ」
「―――ああ」
真島は重いため息を飲み込んで背後を振り返った。
酒を好まない真島のために茶を淹れていた遊女がニコニコ笑っている。
言われるままに遊女が示す席に腰を下ろし用意された膳に形ばかり箸をつけた。
ひと言、ふた言他愛もない話をして―――そして、やがて遊女が甘えるように真島の腕に取りすがった。
白粧がふわりと甘く香り、咄嗟に感じる不快さに真島は一瞬息をつめてしまう。
擦り寄せられる体が厭わしい。だが、あからさまな媚態を見せる遊女を突き飛ばしたい衝動と同時に、真島の体に重苦しい熱がこみ上げてきた。
「…っ」
真島は一瞬眉をひそめたあとで、何か振り切るように強く遊女の肩を抱き寄せた。
うふふ、と遊女は笑う。
「旦那さんみたいにきれいなお顔の殿方のお相手ができるなんて、あたし幸せもんですね」
「そういう君も、こんな見世で女郎をするなんて似合わないな。―――こんなに綺麗なのに」
「んもう、そんな顔してそんな台詞を言わないでくださいよぅ」
頬を染めて小首を傾げるその雰囲気が、やはりどこか彼女に似ていると感じて真島は目元を笑ませた。
―――彼女に似ているからこの遊女のいる見世へあがったのだ。
「だって、本当に綺麗だ。この目も。この肌も、」
言い慣れた甘い台詞と共に遊女を引き寄せると、遊女は小さな声をあげて真島の胸にすがりついてくる。
「旦那さん―――」
細い声をあげる遊女と縺れ合うように褥に身を投げ出した真島の脳裏に、鮮やかな夏の日差しが白く弾けた―――。
――――――…
―――――…
―――
「真島、こんなところにいたの」
鈴を振るような少女の声に真島は咄嗟に振りかえった。
麦わら帽子の影になっていた顔が真昼の太陽の陽射しにさらされた途端、汗がどっと吹きだす。
「姫様」
無心に草むしりをしていた真島は、暑さに目まいを覚えながらも立ちあがると小路の向こうから小走りにやってくる百合子を見て、我知らずゆっくりと瞬きした。
―――ひと目見た瞬間、息が止まってしまう。白い花の化身が現れたのかと思った。
花の落ちたライラックの茂みから弾むような足取りで現れた少女は、普段の和装とは異なり、真っ白なデコルテのワンピースを纏っていた。
百合子は呆れたような表情で、もう、と顔をしかめてみせる。
「本当にお前は真面目ね。こんな暑い中で草取りなんてやめなさいよ。暑さで倒れてしまうわよ」
「―――そ、うですね、」
茫然とする真島に頓着せず、百合子は愛らしい笑みを浮かべて真島を見あげて得意げに「どう?」と小首を傾げてみせる。
その場でクルリと回る少女の動きに合わせて白いスカートの裾がふんわりと揺れた。幾重にも重ねられた白いレースの袖から覗く象牙色の柔らかそうな腕に思わず目がいく。
「今から、千香子おばさまのところにご挨拶に行くのよ。おばさまは洋装がお好きなのですって。だから、お母様が今日はこれを着なさいって」
「ああ、それでですか。姫様が洋装なんて、珍しいですね。とても―――お似合いですよ。すごく綺麗です」
「本当?―――ふふっ、お前に褒められると嬉しいわ」
はにかんだ笑みを浮かべて百合子はそっと自分の姿を見下ろした。
百合子の言葉に反射的に答えながらも自分がどう答えているか真島はほとんど意識していない。
頭の中でガンガンと心臓の鼓動がうるさく響く。そして、目は―――目は百合子から一時たりとも逸らすことができなかった。
普段は隠されている襟元からわずかにのぞく鎖骨だとか、セルロイドの洋靴から伸びる白いふくらはぎがスカートの裾からチラチラと垣間見える様に真島は目を奪われるばかりだった。
目にしみるような純白のワンピースは、まだ少女の名残を残す百合子によく似合っている。
いつもは硬い帯に覆われている胴も今は柔らかそうなサッシュベルトで締められている。
夏着らしく軽い生地で作られている服が百合子の華奢な身体のラインを露わに見せていて、それだけで真島の芯を揺さぶるようだった。
「…姫、様、」
その布の下の肌はどれほどに甘く柔らかく、自分を蕩かしてくれるのだろうか。
想像しただけで覚えてしまう、背筋を駆け上がる痺れるような衝動を殺そうと真島は喉を鳴らした。
―――真島の前で無防備に佇む少女は、目の前の園丁が獣じみた欲望をおぼえているなどと露ほども思うまい。
「真島?どうしたの?具合でも悪いの?」
心配げに眉を寄せ、白い手が真島の顔に伸べられる。
その手を掴み、強引に抱き寄せて、甘い声を紡ぐその口唇を塞いだらどんなにか―――。
ずん、と下腹を襲う重苦しい熱に真島は絶望した。
鼻腔をかすめる甘い花の香りはどこから漂うのか。
「ねえ、ぼんやりしちゃってどうしたのよ。―――やっぱり少し日陰で休んだほうがいいわよ」
「あ、…は、はい、そうですね。すみません」
百合子の細い指先がそっと真島の手をとり、木陰へ導く。百合子はそんなことをするとは、真島の様子がよほどおかしかったのだろう。
「真島でも暑気あたりすることがあるのねぇ」
クスクスと楽しそうに笑う少女の無垢な笑顔に同じく笑みを返しながら、頭の中で思いつく限りの劣情を百合子に向けて吐き出す己に吐きそうだった。
―――これは罪だ、と、そう感じた。
――――――…
――――…
―――
「ああ…、旦那さん…」
ひそめた眉根。切なげに身をよじりながら揺さぶられる女郎を見下ろしながら、頭の中に蘇るのは、あの少女のことばかりだ。
柔らかい膚。熱い吐息。絡みつく白い手足。
涙の滲む高く細い女の声。
白粧の香りを漂わせる遊女の面が、意識する間もなくあの少女の表情にすり替えられてしまう。
「―――め、様…ッ」
彼の中にあるあらゆる欲がすべて、あの少女に向けられてゆくことを止めることができない。
罪だ。
忌まわしい呪いだ。
許されざる劣情だ。
女の肌に溺れながら、泣き出しそうに歪んだ表情で真島は己を罵倒した。
なにもかもが間違っている。
―――真島。お前のそばにいるとホッとするわ。本当よ?
微笑む少女の清らかな笑顔が蘇り、止める間もなくこみ上げてくる熱情に頭が沸騰しそうになった。
間違っている。間違っている。これはあってはいけないことだ。
愛している。憎んでいる。抱きしめたい。壊してやりたい。
相反する衝動をもてあますたびに、この血が穢れているのだとまざまざと思い知らされて目の前が暗くなるの
だ。
―――実の妹なのに。憎い男の娘なのに。
それでも真島の血潮はあの少女だけをひたむきに求めてやまないのだ。
あらゆる罪咎がこの身に落ちてくる。
あの白い花のような少女を標本の蝶のように己のしたに縫いとめて、その全てを奪ってしまえたら。
この世の頸木をすべて剥がし尽くして、この欲望のすべてを叩きつけることができれば―――。
思うだけで眩暈がするような甘美な映像に真島は、歯を食いしばる。
「―――姫様…!」
彼の下で紛い物の花が悲しげに声を放った。
了
<2011.7.10>
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