堕ち神 前編 (弧白×藍丸)
一紋にその依頼が届けられたのは、夜半過ぎのことだった。
夕餉の後、雷王や弧白、桃箒らと共にリビングで食後の茶を飲んでいた藍丸は、ふと顔をあげて天井の隅に目を向けた。
「来たな」
呟く藍丸の声に、雷王と弧白もまた無言で目を上げる。
マンションに憑依している家哭が、声なき声で主に客の来訪の伺いを立てる気配に、藍丸は「いいぜ」と応えた。
同時にふわりと宙に現われた紙の札。
それはたちまち着物を着た童女の姿に代わり、シャンと鈴の鳴る音と共に床に降り立つと、藍丸へ深々と頭を下げた。
―――この辺りで起きる妖絡みの情報を集めては、各々の羽織へ依頼を為す憑神の使いだ。
それまでのくつろいだ表情を改めて、藍丸は背筋を伸ばして童女を見遣る。
主の傍らに控える腹心の妖ふたりも、同じく無言で礼をとる式神を見下ろしていた。
桃箒やひとつ目たちはそっと会釈をすると心得た態で席を外してゆく。
ドアが閉まり、リビングには藍丸と二人の妖。そして式神だけとなった。
若き主の座へ向かって右に弧白が。左には雷王が構えている。
―――全き羽織の懐刀。右の爪先 左の扇子。
火焔の一紋の従属の中で最も格の高い二役だ。
それらを従え藍丸は張りのある声を発した。
「随分と急な来訪じゃねぇか。 事前の連絡もなしたぁどうしたこった」
「ご無礼は承知のうえ。 火焔の羽織でなくば果たせぬ依頼があると、主より文を言付かって参りました」
慇懃に頭を下げた童女は姿に似合わぬ臈たけた声音で、懐から出した文を差し出した。
それらを見ていた弧白が不快も露に口元を歪める。
「―――おやおや。随分と無礼な式神だねぇ。主の格も知れるというもの。
羽織への依頼を先触れのひとつもなく寄越すなんぞ、我が一紋も軽く見られたものだ」
「失礼の段は重ね重ねお詫びいたします。ですが、火急を要する依頼とのことでわたくしが遣わされた次第」
「それはそちらの都合だろう? 大体…」
「弧白、もういい」
棘のある弧白の舌鋒を止めぬことには埒が明かぬと、藍丸が片手を上げて弧白を止める。
主の言葉に弧白が渋々といった態で矛を収めた。
入れ替わるように雷王が軽く咳払いをする。
「藍丸―――」
雷王が促すように声をかけ、若き主が首肯するのを確認してから童女から文を受け取った。
さっと目を通し、一瞬の間、目に憂いの色を浮かべた雷王は、書かれていた内容を若き一紋の主へと告げる。
ひとつ頷き、藍丸は赤き獣と白き妖らと目を見交わす。
ふたりとも羽織の決断を待ち構えている様子で、無言で藍丸を見守っていた。
―――確かに、この依頼は藍丸が最も適しているに違いない。
何より、これを放っておいては人の世への被害も増える一方だ。
それはまた、秘された存在である妖たちの存在を、人に知られてしまうかもしれぬ可能性もあるということ。
それを未然に防ぐのが、今の世を生きる羽織衆が最も心を砕く理だった。
無論、よろず屋の主にして羽織格たる藍丸にとっても、だ。
「俺ぁ受けるぜ、この依頼」
藍丸が明快にそう断じると、妖ふたりへと強い眼差しを向けて答えを待つ。
さあお前らはどうする、と問うかに見えて、それはほとんど命でもあった。
俺の決断についてこいと、明るく輝く黒曜石の双眸はそう二人に命じている。
ふ、と弧白が頬笑んで頷けば、雷王もまた重々しく声を発した。
「お前がそう言うのならば」
「―――お前の心のままに、藍丸」
かくして藍丸一紋は新たな依頼を受けたのだった。
☆☆☆
それから数日。
藍丸たちは深夜の港を望む倉庫街を目前に佇んでいた。
敵はこの奥にある、うち捨てられた廃社を塒にしているのだと調べをつけている。
一寸先も確かでない暗闇から冷たい海風が吹き込んできて藍丸の髪を揺らす。
しばらく待つと、気配もないまま白銀の輪郭が藍丸の背後に現われた。
驚くでもなく火焔の羽織は首を巡らせ、現われた白き妖の姿に片笑みを結んだ。
自ら周囲の偵察に行っていた弧白が白いジャケットから埃をはたき落とすと、やれやれと肩をすくめる。
藍丸が苦笑しながら白き妖に声をかけた。
「おう。すまねぇな。…で、どうだった」
「確かに、いるね。 見つかる前に退いてきたからこちらのことは知られてないはずさ。念のため、見張りを置いてきたよ。異変があればすぐに知らせが入る」
「そっか。じゃあ、手はず通りにいけるな」
ああ、と頷く弧白の側をすり抜けて、雷王が真っ直ぐに藍丸の傍らに立った。
ここまで乗ってきたRV車を律儀に近くの駐車場まで置いてきたのだ。
「遅くなった」と告げながらも周囲を見回して鼻をひくつかせ、嫌そうに眉をひそめる。
「血腥い臭いがするな」
「仕方がない。随分と穢れを溜め込んだようだからねぇ。 もう正気に戻ることはないだろうよ」
応える弧白が皮肉げに笑みを結んだ。
それを聞いた藍丸は痛ましげに目を伏せてため息をつく。
「やっぱり、もう戻れないんだな」
できれば助けてやりたかったと藍丸は呟いた。
雷王は同意するように顔を曇らせ、弧白は軽く鼻を鳴らして興味なさげに視線を巡らせる。
―――憑神からもたらされた依頼。
それは、関東某所の山で、かつては山ノ神として奉られていた神が、土地の乱開発によって社を奪われ山を追われた所から始まる。
神気を失いかけた所に、とどめとばかりに人里で穢れを受け、その身に瘴気を溜め込んだ神が正気を失いやがては人や妖の区別なく呪い、傷つける異形の妖に成り果てたという。
人を攫っては食らい、逆らう妖の命までも容赦なく奪う。
近頃では、夜に出歩くと人がいずこかへ消えてしまう、と、この周辺の人間の社会でも問題になる有様だ。
それの成敗が藍丸への依頼だった。
元が神の裔とのことでその妖力は凄まじく、並の妖では歯も立たぬという。
だが、その属性は金。
火の気の藍丸とは反属性だ。故にその弱点をつくには藍丸の力が最も優勢なのだ。
だからこそ、憑神も藍丸へのこの件を采配したのだと知れる。
しかしそれは諸刃の剣。 同じように相手の力もまた藍丸の弱点となりえるのだから。
弧白は知らぬ素振りで傍らに立つ雷王へ目線を送った。
泰然とした様子で、目標が潜む彼方を凝視している恋敵の姿はいつもと変わらぬ。
その様子すら小面憎く思えて、眼差しに険がこもるのを自覚した。
―――300年の昔の頃ならば、雷王はこの依頼を受けることを反対しただろう。
藍丸の身を案じるが故に。
だが、今の雷王は危険が及ぶことを憂いてはいても藍丸を止めようとはしない。
それだけ、藍丸の力量を信じているのだろう。
「羽織の格」としての采配と力を。
そのことに、弧白は離れていた間にふたりが歩んできた道を思い、わずかばかり不機嫌になった。
弧白が永の旅路を終えて藍丸の元に帰還してから数ヶ月。
羽織としての藍丸が、直々に乗り出すほどの依頼を受けたのはこれが最初のことだった。
ここしばらくは人としてのよろず屋稼業に精を出す日々で、「羽織」宛てへの依頼も来るには来たが、藍丸自ら力を振るう案件は少なかったのだ。
相変わらず人嫌いな弧白はそれらの仕事にはほとんど関わらずにいたが、この度の依頼はなかなかに食指が動く。
闇の向こうを透かし見ながら弧白は喉の奥で笑った。
「―――だって、ねぇ? 神殺しとは面白いじゃないか」
堕ちたりとはいえ元は神。なまなかな相手ではない。奉って封印するのが一番確実な方法だろう。
だのに食えぬ憑神が下した依頼が、“封じろ”ではなく“成敗せよ”とは。
それだけ標的が放置できぬということでもあり、藍丸の力が買われてもいるということなのだろう。
神殺しなど、下手をすれば呪詛を受けて命を落としてもおかしくないほどの返しを食らう。
古来より神を殺めた存在がどのような咎に苦しんだのかは歴史が証明しているのだから。
本来ならば筆頭羽織である嘉祥が受けてもおかしくないような依頼だ。
それを藍丸はいとも簡単に受けてしまった。雷王さえも異を挟まぬままに。
―――ほろ苦いものが弧白の胸に凝る。
藍丸にとって、突然現われた弧白が江戸で共にいた頃のままの存在であると同じく、弧白にとっても藍丸は幼子の頃から慈しんだままの世間知らずな青年の記憶ばかりが濃い。
羽織の格に上がったとわかってはいても、目を離した隙に愛しい子供が大人になってしまったようなおかしな寂寞を覚えてしまう。
まるで弧白が蔑んでいる人間が持つような感情だ、と苦笑した。
弧白の述懐など知らぬ藍丸は、両手をパシンと打ち合わせて気合を入れた。
我に返った弧白も気を引き締めれば、遠くに目線を飛ばしていた雷王も藍丸へと向き直り、その言葉を待つ。
いよいよこれからが肝心の捕り物だ。しくじるわけにはいかない。
「さぁて、お前達、準備はいいな。ぬかるなよ」
「無論。いつなりと号令を」
「ふふ、お前の命があればすぐにでも」
雷王と弧白の面に浮かぶのは余裕に満ちた笑みだった。
戦いに向かう高揚感と―――300年の時を経て再び3人で肩を並べて戦に向かうことの喜び故に。
それは藍丸も同じだった。
この3人が揃うことこそが、いつ果たされるかと願い続けた「在るべき姿」なのだから。
まるでいたずらっ子のような笑みを閃かせた羽織は、「じゃあ、行くぞ」と声を上げると闇の中へと身を投じたのだった。
☆☆☆
―――闇に紛れ気配を殺し、目的の相手が巣食う社を目指す。
時折見えるぼんやりとした外灯の他はわずかな光すら差さない、倉庫の壁ばかりが続く寂しい場所だ。
「―――つーかよ、なんだってこんな場所にいるんだよなぁ」
出自が山ノ神だというのならこんな港埠頭の倉庫街にいるほうがおかしい。
今更の疑問に口をとがらせる藍丸に弧白は目元を笑ませた。
「穢れを受けて狂ったからさ。方角すらままならぬほどに、ね。まあ、大方、たまたま流れて来た先に捨てられた神社でもあったんじゃないかね」
そうだ、と雷王も頷いた。
「この辺りが廃れて10年ほど経つらしい。 奉られずにいた社は神の裔が潜むにはちょうどよいのだろう」
「ふぅん、なるほどねぇ」
藍丸は軽く頷くと歩みを止めた。
闇に慣れた目で雷王と弧白に目配せをする。
そろそろ目標は近い。
ここで作戦通りに動くぞ、と二人に告げる。
二人が無言で了承する気配に藍丸は、腹心の妖のたくましい肩に軽く拳をぶつけて勝気に頬笑んだ。
「雷王、わかってるな。頼むぞ」
「―――承知」
力強い応えと共に雷王の気配が遠ざかる。
それを見送りながら、次いで弧白に声をかける。
「弧白」
「ああ、わかっているとも」
妖しげな笑みと共に弧白はするりと手套を外し、たちまち数枚の符を取り出した。
ふっ、と息を吹きかけて「お行き」と命じると、紙である符は生き物のように宙を舞いいずこかへ消え去った。
これで周囲に異変があれば知らせが入る。
藍丸が覚えているよりも遙かに巧みな術に、束の間藍丸は符の行方を目で追ってしまう。
「さあて、行こうか、藍丸。 陽動するにもここじゃあまだ遠い」
「あ、ああ」
先を行く弧白の背を追い、藍丸は慌てて歩きはじめた。
しかし、すぐに弧白の背は歩みを止め、腕が軽く藍丸を制止する。
その意味を悟って藍丸もまた頬の辺りを緊張させた。
闇の奥に無数に光る赤い光。同時に押し寄せてくるのは先ほどまで感じられなかった生き物の気配と―――突き刺すような殺意だった。
キィキィと鳴く獣の声が周囲を囲みじわじわと迫ってくる。
「あれは、狢の仲間だね。妖気を吸って妖と転じたのだろうよ」
「なるほどな」
それらを見留めて藍丸は軽く息を整え、弧白の背に声をかける。
「陽動する手間がはぶけたってもんだ。あちらさんからおいでなすったぜ」
「ふふ、なかなかどうして、目ざとい相手じゃないか。少しは楽しませてくれそうだねぇ」
「まあな。もっとも、あんまり趣味は良くねぇみてぇだが」
言う間にも藍丸は右腕に妖力を蓄えて術を編んでいった。いつでも炎を生み出せるように。
弧白が軽く腕を振る。
次に上げた手には鋭く伸びた緋色の爪。
闇の中にふわりと舞う銀色の髪が、かつて覚えがある腰までの長さに見えた気がして、敵を目前にしているというのに藍丸は目を奪われた。
無論それは錯覚なのだとわかっていたが。
冷たく光る琥珀色の目を敵へ向けたまま、弧白が藍丸の名を呼んだ。
「―――社はもう、すぐそこだ。お前は先にお行き。―――ここは私が抑えよう」
「…こんだけの敵に囲まれてるんだぜ、いくらお前でも苦戦するんじゃねぇのか」
「ふふ、私を誰だと思っているね? 心配せずとも、……ほぅら」
きゅ、と甲高い獣の声がしたと思ったら、藍丸たちを囲んでいる獣の輪が突然崩れた。
見覚えのある白い獣の姿が黒く蠢く獣たちに飛び掛っている様が見てとれる。
「白銀狐!」
狢たちを背後から襲う存在の姿に気が付き、藍丸が目を瞠る。
弧白は次々に従属たちを呼び、無数にいる獣へと向かわせると、己も爪を研いでそのただ中へと歩を進めた。
ふと振り返った弧白は改まった笑みで藍丸が行く方角を指し示し、恭しく頷いてみせる。
「先触れはこの弧白めが参りましょう。此度の討伐の露払いは私にお任せください、羽織さま」
「弧白……、頼む!」
逡巡はわずかだった。
戸惑いを振り切ると藍丸は大きく頷き踵を返して駆け出した。
邪魔する獣は炎で容赦なく焼き払ってゆく。
「ご武運を、緋王藍丸さま―――」
その背にかけられる弧白の声に藍丸は微かに笑みを浮かべ、闇の中に浮かびあがる社へと向かってゆくのだった。
☆☆☆
近づいた社はまるで肌に粘りつくような重い邪気が充満していた。
随分前からここに巣食っては、人や妖の血を啜り力を蓄えていたのだろう。
濃い血臭がたちこめていて、藍丸は顔をしかめた。
暗闇の中にあってひと際濃い闇を纏った荒れ果てた社。
所々に白い紙を張りつけた鳥居の柱を軽く撫で、ゆっくりと境内に入る。
藍丸は周囲に気を巡らせつつ中にいるはずの堕ち神の気配を探った。
―――いる。
息を潜めてこちらを窺う悪意の針がこちらへと向けられている。
藍丸は慎重に歩を進めた。
一歩進むごとに後戻りのできない悪意の泥に沈んでゆくような嫌な感覚を覚える。
だが、藍丸の表情に恐れはなかった。
全身に炎を蓄え術を編んでゆく。
手に、足に、やがて髪の毛のその先にまで潮のように満ちてゆく焔の気配。
ギイ、と社の重い扉を開く。ポカリと穴を開けた深淵のような暗闇に藍丸は険しい視線をひたと向ける。
濃紺の目が不可思議な色合いに揺らぎ、その奥に炎が閃いた。
「―――さあて、あちらさんも準備万端ってところか」
己の巣の中で息をこらして藍丸を待ち受けているであろう敵に、不敵な笑みをひとつ見せ、藍丸は一歩社に踏み込んだ。
途端に外界と隔絶されたかのような静けさに囚われる。
藍丸は臆することなく天地の区別もつかぬような闇の中に踏み入った。
胸ポケットの中にある携帯電話を取り出し開くと液晶のほのかな明かりからふわりと蝶が舞い上がり、懐くように主の周囲に光をまき散らした。
「極楽蝶、仕事だぜ」
ちらと口唇を舐めて藍丸が携帯電話を握り直すと、それはたちまち小太刀に変じる。
藍丸は闇の中に向けて声を張った。
「おい、いるのはわかってるんだぜ、山ノ神さん。……もっとも今は、堕ちた神さんか?さっさと出てこねぇと社ごと焼き払っちまうぞ!」
ぶわりと闇の中に殺気が広がる。
「お前の境遇は不憫だがな、人に害なし妖をも食らうとあっちゃあ容赦するわけにはいかねぇ。
羽織の俺が許さねぇ。―――出てこい、山ノ神。俺が引導を渡してやる」
藍丸の声が終わらぬうちに周囲の闇に一層濃く悪意に満ちた闇が広がった。
同時に息苦しささえ覚えるような腐臭と、血腥さが場に満ちて、藍丸は小太刀を構えて警戒する。
キィン、と耳鳴りが走る。
どうやら山ノ神が結界を張ったようだ。
元々、この場は敵の結界の内だったが、それを更に強化するような強い結界を張りなおしたようで、それだけでもこの敵がどれだけの力を持つのか窺い知れる。
「へへ、怒っちまったか、神さんは」
藍丸が腕を振るうとたちまち炎が巻きあがった。
山ノ神の気配のする辺りへ向けて炎を投げつけると、苦悶げな獣の唸りが空間に響き渡る。
闇の奥がざわりと震える。
蠕動を繰り返す漆黒の奥から、炎に浮かび上がるように異形の影が姿を現した。
眼差しにわずかに切なさを滲ませた藍丸がその影を見つめる。
「―――それが、今のお前の姿か」
ポツリと呟くその目の先に、藍丸の炎に炙られ苦悶する堕ちた神の姿があった。
ところどころ腐肉が浮かぶ獣の姿は、狼の体が捻れたようなおぞましいかたちをしている。
歪つで大きな頭部のほぼ半分は牙を剥いた口だった。
黒い血がそちこちに滲み、開いた傷はいつついたものか、その傷口に蛆にたかっている。
そして、その目―――、虚ろな洞の如き闇しかない目には、今は己を傷つける者への憎悪しか見えなかった。
かつては神の一柱として人々に信仰されていた存在が邪性も露わに藍丸を睨めつける様は、並の妖ならばおぞけをふるって逃げ出しかねない禍々しさに満ちている。
―――神性を失い、こうして人の世に生きる異形となり果てた神へ、同情めいた感慨を覚えかけた藍丸は、しかし口唇を噛んでそれを振り払った。
「……仕事の場で感情に流されるのはご法度、ってな」
苦く笑って藍丸自分を睨む山ノ神と対峙した。
藍丸の身に再び満ちてゆく焔の気配に山ノ神が警戒を露わに威嚇する。
「さあ、来いよ、山ノ神」
藍丸の言葉に堕ちた神は憤怒の遠吠えと共に、藍丸目がけて力を放った。
―――鋭い突風にも似た衝撃が刃のごとく藍丸に迫る。
舌打ちしつつ身軽に交わし、避けえなかった攻撃を小太刀で難なく受け流す。返す刃に焔を乗せて山ノ神へと打ち出した。
だが、投げつけられた焔は、先ほどの不意打ちほどうまくはいかず、堕ち神によって他愛もなくはねつけられる。
藍丸は悔しげに顔をしかめた。小太刀を構え距離を取ろうとするその耳に獣の唸りが間近に響く。
ハッとした時にはすぐ側を血腥い臭いと共に獣の爪が目の前にあった。
「ち、くしょ…!」
すんでで交わすその左肩を神の爪が引き裂いてゆく。飛散する血。
痛みを感じる余裕などない。
藍丸は素早く宙に飛び、獣の爪から逃れると、呼び出した炎を次々に投げうった。
焔に打たれギャンと鳴いた山ノ神は毛皮についた炎を胴震いひとつで消し去り、憎悪にたぎる目で藍丸を見上げる。
炎の煽りを巧みに受けて未だ宙に留まったままの藍丸は、肩の傷にチラと目を遣り舌打ちをした。
「―――反属性ってやつぁ面倒だな」
こちらの炎が敵の弱点なら、あちらの金の気は藍丸にとっっても致命的な弱点になりうるのだ。
だが、それでも。
負ける気など微塵もない。藍丸は口の辺を吊り上げた。
「火焔の羽織を舐めるんじゃねぇぞ、堕ち神さん」
少しばかり血の気の引いた顔に、それでも不敵な笑みをはき、藍丸は再度身に焔を蓄える。
「―――グルルル…」
腐臭漂う中、獣も容赦なくその力を振るう。
ここは山ノ神の結界の内。相手の腹の内で戦っているも同然だ。
どう考えても藍丸の不利に違いない。
「っおっと、―――くそ、早く決着つけねぇとな」
襲いかかる金の気の疾風を避けながら、藍丸はとどめの焔を振るうためにその力をためてゆく。
時折かすめる攻撃ひとつさえもやけに重く、藍丸の体力を奪い取っていくのだ。これ以上、戦いが長引けば敵地にいる藍丸が先に力尽きるは必定。
「それに、俺ぁ生粋の江戸っ子だからな。チンタラやるのは性に合わねぇ」
縦横無尽に襲いかかる爪を避けそこねてついた頬傷を手で乱暴に拭いながら、藍丸は宙返りを打ち地に降り立った。
堕ちた神はすぐ目の前。
だが藍丸の小太刀の間合いでは、まだ、ない。藍丸は緊張を露わに頬を強張らせる。
身の内の焔はとどめの一撃にはまだ足りぬ。
藍丸の様子に驕ったか、殺意に満ちた獣の爪がぶわりと膨らみ巨大な影となる。たちまち爪は六尺ほどに変じた。
「―――はっ!爪の大きさも自在かよ!」
小太刀では間に合わない。
「極楽蝶!」
敵から目を反らさぬままに、藍丸は手にした小太刀を振りあげた。
見る間に小太刀の姿が変じる。
薄光る刃、極楽蝶は藍丸に応えて一尺ばかりの長刀へと成り代わっていた。
振りおろされた爪刃を長刀で軽々と打ち返し、力任せに獣を押しやる。
体勢を崩した神の真上に藍丸は跳躍すると、鍔元を握りしめ、未だ地に伏せる堕ち神へ勢いつけて刃を打ち落とした。
「さあ!観念しやがれ!」
腐臭に満ちた肉を貫き、ぐじゅりと身を裂く音が響く。
獣の甲高い叫びと重なるように、バリンと何かが割れる音なき音が闇に満ちた。
藍丸の濃藍の目に明るい光が瞬いた。
我が意を得たりとばかりに藍丸は叫ぶ。
「雷王!いまだ!!」
羽織の叫びと同時に今度は空間を震わせる轟音が響きわたる。
<つづく>
<2011.8.22>
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